新世界
ルディの側にはトーレス医師とミクラス夫人が居た。熱が引いてからも、ルディの意識は戻らず、呼吸の浅い状態が続いていたらしい。そして突然、咳き込んで喀血したとのことだった。
「ルディ」
手を握り、呼び掛けてみた。ルディ、ともう一度呼び掛ける。
だがルディは眼を覚ますことなく、たた機械の力で胸を上下させていた。昨日までは顔色が少しずつ良くなっていったというのに、また一気に振り出しに戻ったかのように土気色で、生気が無い。
「ルディ……」
「突然、咽せるように咳き込んで、血を大量にお吐きになったのです」
俺が戻ってきてから三時間が経った時、ルディの脈拍と呼吸が落ち着きを取り戻した。トーレス医師は何かあればすぐに連絡をすること、夜にもう一度診察に来る旨を告げてから、病院に戻っていった。
一方、ルディの意識は戻らないままだった。ただ心電図が規則的な音を奏で、ルディが生きていることを知らせていた。
トーレス医師が去ってから、ミクラス夫人がルディの状態が急変した時の状況を教えてくれた。本当に突然だったのだと言う。ミクラス夫人が看病していたところ、ルディが突然咳き込んで、何度も血を吐いたらしい。
「血を沢山吐かれて……、その後呼吸が止まって……。すぐにトーレス医師を呼び寄せたのです……」
輸血によってルディの顔には血色が戻っていた。それでも、疲労しきった表情で力無く見える。
「……来週には手術だ。ルディも何とか頑張ってくれる」
「ハインリヒ様……」
「ミクラス夫人、ルディが少し強くなったように思わないか?」
これまで、体調を崩すと、ルディはいつも弱気になった。いつ死んでも構わないと言ったこともある。だが、最近のルディは一切そういう言葉を口にしない。そればかりか、生きることに希望を持っている。そんな気がする。
「ええ。私もそう感じておりました。快復してからのことを、楽しそうにお話しになるのですよ」
「だから……、ルディは大丈夫だと俺は思っている。今は苦しいだろうが、きっと乗り越えてくれる。……なあ、ルディ」
眠っているルディに呼び掛ける。ルディは眠ったままで返事をしなかったが、きっと眼を覚ましたら、微笑みながら頷いてくれるに違いない。
「ミクラス夫人。少し休んでくれ。俺がルディを看ているから」
「でもハインリヒ様もお疲れでしょう。お仕事もありますし……」
「明日は休みなんだ。休みの間は俺がルディを看るよ。……ルディに迷惑をかけた分、俺がそうしたいんだ」
「ハインリヒ様……」
この日、夜になってから、ルディは一度眼を覚ました。頼りなげな視線で話をすることは出来なかったが、意識は回復した。
夜中もずっと俺が傍らで見守った。ルディの隣で、明後日の会議用の資料に眼を通す。そうしながら、時折、ルディを見遣る。ルディは眠り続けていた。
「眼が覚めたか?ルディ」
朝食を摂り終えて、ルディの部屋に行き、二十分が経っただろうか。ルディの瞼が動いた。ルディ――と呼び掛けると、その眼がゆっくりと開いた。
「ロイ……」
「苦しくないか?」
尋ねると、ルディはああ、と頷く。昨日の不調からは完全に回復したようだった。良かった。
「水を飲むか?」
「少し……欲しい……」
水差しからコップに水を少し注ぎ、ルディの頭をそっと抱える。少量の水を口に入れると、ルディはこくりとそれを飲んだ。咽せないことを確認してから、もうひと口飲ませる。コップが空になり、もっと飲むかと尋ねると、ルディは微笑んで充分だと応えた。
「……仕事は……?」
ルディの体勢を元に戻すと、傍と気付いたようにルディが尋ねた。今日は休日だ――と応えると、そうか、とルディは笑む。
「待っていてくれ。ミクラス夫人に食事を持って来てもらう」
ルディの部屋を出て、階段に向かっていたところでミクラス夫人と出くわした。フェルディナント様の御様子は如何ですか――と不安げに尋ねて来る。
「今、眼が覚めたところだ。具合も良さそうで、水を少し飲んだ」
「そうですか……! 安心しました」
ミクラス夫人は本当に安心したように息を吐いた。優しいミクラス夫人のことだ。ルディのことを、随分心配していたのだろう。
「ルディの食事を持って来てもらえるか?」
「はい。すぐに御持ちします」
ミクラス夫人は嬉しそうに告げて、足早に台所へと向かう。
俺が部屋に戻ると、ルディはゆっくりと頭を動かした。窓の外を見ていたようだった。
「今日は、随分天気が良いのだな……」
「ああ。昨日まで曇り続きだったが、今日は快晴だ」
「アクィナス刑務所は……、地下で……、灯りも無かったから……、眩しいぐらいだ……」
ルディは少し首を動かして、窓の方を見遣る。眩しげに、どこか懐かしげな眼で部屋に伸びてくる光を見ていた。
「先日、そのアクィナス刑務所に行って来た。酷い環境だったから、ハイゼンベルク長官と相談して、囚人達を別の刑務所に移送することになった。……尤も、社会運動に加担した者が多いから、今回の件で罪が軽減されている者が多いがな。その作業にハイゼンベルク長官やオスヴァルトが手間取っているようだ」
「オスヴァルト……、元気だったか……?」
「ああ。ルディのことを心配していた。……そういえば珍しいことに、ハイゼンベルク長官も心配していたぞ」
「二人共に迷惑をかけた……。ロイ……、アクィナス刑務所に……、アラン・ヴィーコという男が居る……。彼はどうなった……?」
「ああ、その男のことで少し揉めているんだとオスヴァルトが言っていたぞ。無罪かどうかということでな。これまでアクィナス刑務所の囚人達には裁判請求権が無かったから、弁護士を頼むことも出来なかったが、このたび彼等にもその権利が与えられたんだ。そうしたら、アラン・ヴィーコという男の弁護士が無罪を主張したらしく、オスヴァルトが頭を悩ませている」
「アランは無罪だ……。私も話を聞いた……。ロイ、尽力してやってくれないか……?」
「解った。ところでそのアラン・ヴィーコの事件は、お前がハイゼンベルク長官の意見を覆して採決したとオスヴァルトが言っていたが……」
ルディはそうだと頷いた。そしてゆっくりと言葉を紡ぎながら、アラン・ヴィーコから聞いたという話を教えてくれた。
社会運動に携わった人間は、危険思想家として、政府に眼をつけられる。ルディはたびたび彼等を擁護してきたが、全ての事件に眼を光らせることも出来ない。そのアラン・ヴィーコという男も政府に眼をつけられて、無実の罪を着せられたようだった。残酷な話だが、帝国ではよくあることだった。
「不敬罪で捕まった者達は皆、既に解放されたそうだ。ほら、あの皇族の侍医のベッカーも解放されたと聞いている」
「そうか……。良かった」
「アラン・ヴィーコの件は明日にでもオスヴァルトに伝えておくよ。彼とはよく話していたのか?」
ルディは頷いて、私を助けてくれた男だと言った。
「助ける?」
「作業が遅れると……、完成した自分の作業分を……、私にこっそり渡してくれたり……、色々と庇って……くれたりした……。体調が悪くなってからは……、ずっと看病してくれた……」
「そうだったのか……」