新世界
「了解した。その方が良いだろう。その書類、読んだらサインを貰えるか。外交部に持って行かなくてはならない」
「解りました」
「緊急の書類はこれだけだ。これから三日間、休暇だろう?」
「ええ。久々に実家に帰ります」
「お前はいつも宿舎だからな。偶には家に帰ってのんびりするのも良いことだ」
書類に全て眼を通してから最後にサインをする。それをムラト大将に渡すと、ムラト大将は早く帰れと手を振る。
実家は王宮と同じく首都にあるが、少し離れた場所にあるため、王宮から眼と鼻の先にある宿舎を利用していた。何かあればすぐ駆けつけることが出来るし、生活にも不便は無い。だが、偶には実家に帰って祖父母の様子も見てきたい。
それにしても、新ローマ帝国で出会った男のことがずっと頭から離れなかった。どんな素性の者かも解らないままだったが、自分で決めた信念を最後まで押し通すような、ひとつの筋を持った男だった。しかしその筋が、脆いようにも感じた。何かの刺激を受ければ、より研ぎ澄まされ強い柱のようになるだろうに、彼の何らかのしがらみがそれを脆くさせている。
彼の考え方は新トルコ王国の進歩派に近い。それなのに自分の思想を弱めて絶対君主制に近付けようとするのは何故か。やはり帝国の民故か。
「ルディか……」
王宮を出て歩きながらぽつりとその名を呟いてみる。
ルディとしか彼は名乗らなかった。此方もレオンとしか名乗っていないのだから、それ以上聞き出すことは出来なかった。
「お帰りなさい」
実家は王宮から電車で約一時間かかるところにある。首都内にあるといっても隣町まで十分というところで、都会的な雰囲気は無く、どちらかといえば田舎的な長閑な土地柄だった。門をくぐれば祖母が微笑みと共に出迎えてくれる。祖母と顔を合わせるのも半年ぶりだった。優しく背を抱き締める祖母の背を、此方もそっと抱き締める。
両親共に俺が十歳の時に事故で亡くなって、それ以来ずっと祖父母が親代わりだった。厳格で少し偏屈な祖父に対し、祖母はいつも優しく見守ってくれる人だった。
「ただいま。変わり無さそうだね。祖父さんも元気?」
「相変わらずだよ。孫が帰ってくる今日ぐらい作業の手を止めれば良いのに」
「あの祖父さんが一日でも仕事を休んだら、その方が余程何かあったのかと思うよ」
祖父は鍛冶屋を営んでいた。大量生産を嫌い、ひとつひとつ手作業で金物を作る。家の裏側には作業場があり、今も其処からカンカンと音が聞こえてくる。作業場に足を運ぶと、祖父は道具を手にしたまま、ちらと此方を見た。
「ただいま、祖父さん」
「漸く帰ってきたのか。この親不孝者が」
仏頂面のまま祖父は言う。親不孝者呼ばわりされるのは、軍に入隊したことがきっかけだった。そのため、将官に昇進しようが長官となろうが、祖父は誉めることもなかった。軍人というものが祖父はどうも嫌いらしい。祖母は俺が軍人となることを決めた時、やはり良い顔をしなかったが、俺の決めたことだと言って認めてくれた。
「まだ軍を抜ける気にはならんのか」
「まだまだあと十年ぐらいは」
祖父はふんとさらに不機嫌そうに眉を顰めて、また手を動かし始める。
「久々にレオンもテオが揃って帰ってくるっていうのに、いい加減、作業を止めたら?」
「テオも?」
祖母の言葉に弟の名前が出て来て驚いた。テオも此方に帰ってくるとは思わなかった。
「あら、知らなかったのかい? 兄さんに合わせて休暇を取るって言っていたからてっきり……」
「テオとも暫く会ってないよ。国境警備隊所属だから本部に来ることも無い」
王宮に置かれている本部は、将官以上が所属することになっている。そのため、テオのように佐官級にある者は本部からの命令が無い限り、王宮に出入りことも無い。一方、俺は長官という立場上、王宮に常時身を置かなければならないから、弟のテオと顔を合わせることも無かった。かれこれ一年ぐらい会っていないのではないだろうか。
「何ヶ月か前に休暇を得て此方に帰っていたけどね。あの時は一週間ぐらい居たかしらねえ。何も変わってなかったよ。レオン、家に入りましょう。こんな頑固祖父さんは放っておいて」
相変わらず無言で作業を続ける祖父をちらと見遣ってそう言って、祖母は促した。こんな会話もいつものことだった。祖父はそれを気に留めるでもなく、作業を続ける。
「作業が一段落したら来なよ、祖父さん」
祖父に言い残してから、祖母の後を追って家の中に入る。
家の中は以前来た時と少しも変わっていなかった。テーブルの配置も、床に敷かれたラグも何もかもが同じだった。祖母のことだから、そう心掛けてくれているのかもしれない。偶にしか帰って来ない二人の孫のために。
そしてリビングに足を踏み入れると、ふわりと甘いシロップと香ばしい香りがした。俺とテオの大好きな香りだった。
「この香り……バクラヴァス?」
「孫達が帰ってくるんですもの。好物を作って待っていましたよ」
祖母は当然とばかりに言って、台所に入っていく。程なくして、大きなバクラヴァスを持ってくる。それを切り分けて、珈琲と共に俺の前に出してくれた。
薄いパイ生地を重ねて甘いシロップに浸したこの菓子が、俺も弟も大好物だった。中には胡桃や落花生も入っていて、それが何とも香ばしくシロップと絡み合う。市販の物はシロップが甘するのであまり食べないが、祖母の作るものは絶品だった。おまけに珈琲も美味い。帰ってきて、ほっと一息吐ける瞬間だった。
「そろそろテオも帰ってくる筈……。そうそう何か言っていたんだけど、電話が良く聞き取れなくて」
「電波が悪かったのかな」
「何だか来月からどうのって言ってたようなんだけど……」
「もしかして所属先が変わるのかな。でもそれにしても中途半端な時期か」
「テオが戻って来たら解ることだけどね。……あ、帰ってきたようね」
ただいま、と弟の声が聞こえてくる。久々に聞く弟の声だった。祖父がちょうど作業場から戻って来たらしく、玄関先で言葉を交わし合っている。兄さんが帰っているっていうのにまだ作業してたの――と呆れた風に言うテオに、作業は作業だと言い張る祖父の会話が聞こえて来るのが、何とも居心地が良かった。
「兄さん、久しぶり」
「本当に久しぶりだ。去年以来会っていなかったな」
「この間、此処に帰ってきた時、兄さんの宿舎に行ってみようかと思ったんだけど、急に呼び出しかかってさ。ところで、こんな時期に兄さんが休暇なんて随分珍しいけど……」
「昨日まで新ローマ帝国に居たんだ。十日間の任務だったから、その分の休暇と有給が溜まっていたから少し休暇を取ることにした」
「新ローマ帝国に?」
テオは俺の側に歩み寄り、祖父は向かい側に腰を下ろす。祖父の隣は祖母の席だった。
「テオ。座って話をしたら?」
未だ座ろうとしないテオに祖母が笑いながら促すと、テオは頷きはしたが、座ろうとしなかった。俺の方を見て笑みを浮かべ、敬礼してみせる。
「何だ? 急に」
「先に報告するよ」
「報告?」
「来月から王宮の本部に所属することになった」
「本部に……? お前、まだ将官ではないだろう」