新世界
アクィナス刑務所から少し離れた場所で、ハッダート大将と共に待機していた。アクィナス刑務所により近い場所で見張っているアジーズ少将から、通信機で逐一報告が入る。ハッダート大将は報告を聞きながら、俺の方を見てそう言った。
「攻め込むと同時に一気に刑務所内に入り込まないと、宰相を殺害する恐れもあります。イムラーン中将とアジーズ少将が外の警備兵と対峙すると同時に、私達は中に進みましょう」
「了解した」
ハッダート大将は通信機に向かって、ついて来られないものは置いていくと厳しい言葉を飛ばす。それからハッダート大将は此方を見て頷いた。
「突撃する!」
俺の声が通信機を通じて、全員に伝えられる。建物の影から共和国軍の軍服を着用した者達が一斉に刑務所に向けて走り出した。
微かな呼吸だけが、ルディの口から漏れ出る。
大量に血を吐いた時から、意識の無い状態が続いていた。呼びかけにも応じず、頬を叩いても眼を覚まさない。昏睡状態――というのだろう。脈も弱々しい。
生きると言ったじゃないか、ルディ――。
ルディの顔を隠すように伸びた前髪を、手で梳き上げる。頬がこけ、眼の下には深い隈がある。
宰相は美形だという噂があった。ルディはその噂に違わなかった。初めて顔を合わせた時はそれを確信したものだが、今はその影も無い。
痩せすぎていた。考えてみると、ルディは此処に来て、まともに三食摂ったのは数える程しかない。初めの頃は作業が追いつかず、食事を摂らせてもらえなかった。作業に慣れてきた頃には、刑吏官と口論になって懲罰房行きとなり、食事を与えられないことも度々あった。そして具合の悪い時はただひたすらこの牢で眠っていたから――。
こんな状態になるのも無理は無い。
激しい咳もいつのまにか止んだ。
一昨日、大量に血を吐いた時は苦しげに眉根を顰めていたが、今はそれすらもない。力無く眼を閉じて、浅い呼吸を繰り返す。何とか水を飲ませようとしても、飲み込むことすら出来ない。
ただ死を待っているだけの状態で――。
「もう少しで出られるかもしれないんだぞ、ルディ……」
頬を軽く叩いて呼び掛けてみる。一日に何度かそうして眼を覚まさせようとした。しかし、ルディは眉一つ動かさない。
「……意識が無いままなら、苦しみからは解放されてるよ」
二つ隣の牢のエドガルが悲しげな笑みを浮かべて言った。
「アラン。お前は良くやったよ。けどもう楽にしてやれ」
「エドガル……」
「そのまま寝かせておいてやれ。その宰相も精一杯頑張った。刑吏官に堂々と楯突いて、最後まで自分の意志を貫いてな」
「だがまだ……」
「俺の毛布を其方に渡すから、せめて最期は暖かく包んでやれ。良い夢を見て逝けるように」
エドガルが牢の隙間から、毛布を丸めて、此方に渡してくる。手を伸ばして先を引っ張れ――と促され、そのようにして毛布を引っ張った。牢の隙間から隙間を伝って、毛布がやって来る。
「ルディ……」
俺はまだお前を信じたいのに――。
もう無理だというのか――。
ルディが使っていた一枚の毛布は床に敷いて、俺の毛布は既にルディの身体に掛けていた。その上から、エドガルに借り受けた毛布をそっと身体に掛けてやる。
「ルディって俺が思っていた旧領主のイメージと違ってたんだよな。こう偉ぶらないというか……。旧領主にもこんな人間が居るんだと初めて知った」
ジルが此方を見ながら、話しかけてくる。良い奴だったよな――とルディを見つめて言う。
「良い奴から先に逝ってしまうもんだ」
「……まだルディは……」
「アラン。宰相はもう虫の息だ。今日か明日か……、息を引き取るのも近い」
エドガルは諭すように俺に言う。
俺とて妹の臨終に立ち会った。だから死ぬ間際の人間の様子はよく解っている。
ちょうど今のルディと同じ状態だと――。
もうルディの命数が尽きかけていると――。
それでも信じたかった。信じたいと思った。
まだ息をしているのだから、身体が暖かいのだから。
明日にはまた良くなる――と。
「……ルディはこんなところで死ぬべき人間じゃない。せめて……、せめて外へ出してやりたい……」
「無理だよ、アラン。牢には鍵が厳重にかかっている」
「おかしい話じゃないか。皇帝に……、たった一人の人間に逆らったという罪で懲役50年だぞ……? 最期の願いぐらい叶えてくれて良いじゃないか……」
こんな鉄格子の中ではなくて、もっと陽の当たる場所で、蒼い空の下で、息を引き取らせてやりたい。
ルディは頑張ったではないか。最後の最後まで、自分の意志を貫こうと――。
「アラン。宰相の顔をよく見てみろ」
エドガルは鉄格子に近付き言った。
「俺の位置からでも解るが、良い顔をしている。きっと夢のなかで、弟に会っているんだろう。……不幸な人生だったかもしれんが、今この瞬間はとても幸せそうだ」
ルディは――、確かに、苦しげな表情も悲壮な表情も浮かべていなかった。少しだけ口角を上げれば、微笑んでいるようにも見えて――。
「ルディ……」
やはりお前は、このまま息を引き取るのか――。
「おい、上が妙に騒がしくないか?」
この日も作業は無かった。しかし、今日は昼食がまだ来ていない。もう昼食の時間になったとは思うが、看守達は一向に下りて来ない。まさか夕食まで抜かれるのではないだろうな――と誰かが話していた時のことだった。地下一階への階段に近い牢に居る初老の男が言った。耳を澄ませると、パンパンと何かの弾ける音が聞こえてくる。
違う。これは――。
銃声だ――。
「看守達が言ってたように、戦争なのか?俺達も殺されるのか?」
誰かが戦々恐々と言った。今も尚、銃声が聞こえてくる。戦争が――、戦闘が上でも勃発しているのなら、敵国が連合国軍――ルディの助けた長官の居る共和国ならば、もしかしたらルディを助けて貰えるかもしれない。
否――、たとえ共和国でなくとも。
ルディが元宰相だということを知れば、敵国はルディを大切に扱う筈だ。ルディは生き証人となるのだから。
階段を駆け下りてくる足音が響いてくる。連合国軍かと思った。違った。
看守の一人が銃を片手に降りてきた。
此方に駆け寄ってくる。
何のために?
まさか、ルディを――。
ルディという存在を消してしまうつもりなのか。これまでの帝国の横暴を隠すために――。
駄目だ。それだけは駄目だ――。
咄嗟にルディの身体を庇う体勢を取る。アラン、駄目だ、下がれ――とエドガルとジルが叫んだ。
しかし俺は撃たれてはいなかった。代わりに、此方に銃口を向けていた看守の手から、拳銃が弾き飛ばされた。
「その男の身柄を拘束しろ!」
若い一人の男が、強い口調で言い放つ。彼は牢をひとつひとつ見ながら、足早に歩いてくる。帝国軍の軍服ではない。あれは一体何処の――。
男はこの牢に足早に駆け寄ってきた。牢の真正面に立って、瞬きもせずルディを見つめている。
「ルディ……」
その男は愕然とそう言った。
俺は此処に来るのが遅かったのか――。
『私のことなら大丈夫だ。上手くやる』
ルディ、君はそう言っていたじゃないか。