新世界
刑吏官に睨まれて会話を中断すると、作業開始が告げられる。まずは大きな木材を組み立てなければならない。なるべくルディに負担がかからないように、しかし怠けているようには見えないように気を配った。俺ばかりでなく、ジルやクロード、他の囚人達もルディを庇った。
地下二階の囚人達はルディに味方していた。クロードのように、ルディに刑吏官達からの暴力から庇ってもらった者も多い。威張る刑吏官達と対等に張り合うルディは、この刑務所にあっては稀な存在だった。だからこそこのような時はルディを庇う。旧領主層の出身にしては珍しく、性根の入った男だ――と囚人達はルディを評していた。
作業を進めながら、何気なく医者だという男に近付く。男の方は俺に気付いて、以前手助けしてもらったな――と声をかけてきた。
「大したことじゃない。……唐突だが、医師免許を持ってるというのは本当か?」
「過去に持っていた。剥奪されてしまったが」
「良かった。実は少し診て貰いたい奴が居るんだ。……ええと、済まないが、あんた名前は?」
刑吏官がぎろりと此方を見たので、話を一旦止めて作業に専念している振りをする。男もそれは心得ていたようで、知らぬ振りをして暫く作業を進めた。刑吏官の眼が放れて暫くしたところで、男はアドルフ・ベッカーだと名乗った。
「俺はアラン・ヴィーコ。よろしく。……で、診て貰いたい奴というのが……」
部屋の片隅で作業を進めているジル達に視線を向けた時、ジルが此方を見て軽く首を振った。どうしたのか――ジルの周囲を見渡すと、背後でルディが蹲っているのが見えた。
具合が悪くなったのだろう。刑吏官に見つからなければ良いが――。
ジルやエドガルは作業をしながら、ルディの姿を巧みに隠していた。
「向こう側で蹲っている男が居る。あいつを診て貰いたいんだが……」
「薬も無ければ治療も出来んぞ」
「解っている。でも何処が悪いのかは解るだろう。それが解れば少しでも対処……」
何を怠けている――と刑吏官の怒声が響き渡る。此方に向けて注意したのかと思ったが違う。刑吏官二人が部屋の奥へと向かう。
まずい。ルディのことを気付かれた――。
「5163番! またお前か!」
刑吏官はルディを庇おうとしたジルを突き飛ばし、ルディの頭を掴む。怠けずに仕事をしろ――と、刑吏官はルディを積み上げた木材に向けて投げ飛ばした。木材が音を立てて崩れていく。ルディは苦しそうに顔を歪めた。
「あんた眼が腐ってるのか?こんな具合悪そうにしている人間を突き飛ばすなんて、普通の人間じゃ出来ないよな」
ジルが言い捨てる。刑吏官が今度はジルの襟首を掴む。
ジルがわざと刑吏官の眼を引きつけていることはすぐに解った。その合間にエドガルがルディの身体を起こす。咳き込むルディの背を、エドガルが摩っていると、作業をしろ、と別の刑吏官が怒鳴る。
「……何故あの方が……こんなところに……」
アドルフ・ベッカーはルディの方を凝と見つめて呟いた。もしかしたらこの男――。
「ルディを……、知っているのか……?」
「宰相閣下ではないか……。何故……そんな方が……」
「皇帝の不興を買ったらしい。昼食の時にでもあんたに診てもらいたかったが……。あの様子ではもう無理のようだな。牢に連れていってくる」
立ち上がって、ルディの側に歩いて行く。5150番、作業をしろ、と刑吏官に怒鳴られたが、構わずルディの許に歩み寄った。
「作業続行は無理だろう。牢に連れて行ってくる」
ルディに立て、と声を荒げる刑吏官に告げると、その刑吏官が俺の腕を掴んだ。
「5150番、勝手な真似は許さん」
「じゃあ、此処で看病出来るのか?あんたが」
「止せ……、アラン……」
ルディが小さな声で言った。刑吏官の手を振り解き、ルディの側に屈む。良いから黙っていろ――と囁いて、その腕を担いで立ち上がる。刑吏官の方を振り返って言った。
「牢に行く許可をくれ」
「作業をしろを言っている!」
「俺はこいつを牢に連れて行ったら戻ってくる」
「判断するのは私達だ!お前達ではない」
「だったらこの状態を……」
言い返しかけた時、誰かがルディの身体を下ろすよう告げた。誰だろうと思ったら、先程の男――アドルフ・ベッカーだった。
ルディは既に意識を手放していた。ルディの身体をそっと下ろして彼に預けると、彼はすぐにルディの手首に触れた。
「5159番! 勝手な真似をするな!」
「私は医者だ。このように苦しんでいる人間を放っておくことは出来ない」
俺とジルが刑吏官の注意を引きつけておけば、その間、ルディを診てもらえる。刑吏官と押し問答をして、五発程殴られる。アドルフ・ベッカーは刑吏官に怒鳴られ引き剥がされるまでの間、ずっとルディを診察していた。ルディは意識を手放したままで、結局、俺が牢へと連れて戻ることになった。
寒さを感じて眼を開けた。身体が言うことを利かない。全身を気怠さが覆っていて、身体を起こせない。
眼を覚ますまでは庭を軽やかに歩いていた夢を見たのに――。
夢と正反対の状態に我ながら苦笑する。珍しく楽しい夢を見た。夢のなかでの私はまだ幼かった。ロイと共に屋敷のリビングルームから外に出て、ボール遊びに興じていた。走っては駄目よ――と母の声が聞こえたと思ったら、父までもが外に出て来る。少し散歩をするか――と父がロイと私を誘った。ロイは駆け出し、私がそれについていこうとすると、父の腕が伸びてきて私を抱き上げる。お前はあまり走っては駄目だ、と注意される。
懐かしい時分の夢だった。
ロイのように走りたい私には父の腕の中は落ち着かなくて、しかも父に苦手意識を持っていた私はどうしても緊張してしまう。
そんな――在りし日の夢だった。
父にとって、私という存在は邪魔なのだ、不要な子供なのだとずっと思っていた。そんなことはないとロイは言っていたが、父が私に特に厳しかったことはロイも解っていた。
そうした父の厳しさの積み重ねが、私の苦手意識へと繋がっていった。
父は私に特に厳しかった。何故、父が私にだけ厳しいのか――考えて考えた末、身体の弱い私は邪魔なのだと考えるようになった。実際、父は私が体調を崩すと決まって不機嫌になった。自分で体調管理をしろ、死にたいのか、と何度叱られただろう。
だが――、私は大きな誤解をしていた。
もし私という存在が父にとって邪魔だったのなら、父は私に無関心だっただろう。叱ることも無かった。
何より、父は私が誘拐された時、軍の規則を破ってまで自分の部隊を出動させて、助けに来てくれた。あの頃は世間体があったからだと思っていたが、違う。父はそのようなことを気に掛ける人間ではない。それに世間体云々というのなら、勝手に軍を動かすこともなかった筈だ。
『無事か。良かった――』
救出された時、父はそう言って私を抱き締めてくれたではないか。何故、私はもっと早く気付かなかったのだろう。
私は愛されていなかった訳ではない。邪魔者扱いもされていない。ずっと父にも母にも愛されていたではないか。
父が私に厳しかったのは、私が身体の弱いことに甘えていたからだ。