世界の彼方のIF
エンジン音の消えた廊下は、想像以上の静けさだった。普通に歩けるということは、重力は正常に働いてるということだ。
自分と同じ考えの客が一人もいないことに少々の不安と罪悪感を抱きながらも、乗務員に出くわしやしないかと、ドキドキしながら通路を目指す。
角を曲がりかけたところで、複数の男たちの声が聞こえてきた。どうやらこっちへ向かってるらしい。おれは慌ててそばの用具入れに身を隠し、彼らが通り過ぎるのを待つことにした。
が、現れた作業服着姿の二人組は、おれが行こうとしていた窓の前で立ち止まり、何やら作業を始めてしまう。
「気づいたのが出発前でよかったよ。航行中だったらと思うと、ヒヤッとするぜ」
「まったくだ。この窓が単なるスクリーンだとバレた日には、俺たちの首は飛ぶからな」
「夢を売るなら、もうちょっとマシな方法があると思うんだがなぁ」
「コスト削減と資金調達を同時に行うには、これ以上のアイデアはないじゃないか。火星旅行なら大金はたいてでも行く奴はいる。でも、経費がやたらにかかるから、中央政府の取り分は、ほとんどない。収入はそのままで支出を減らすには――」
「航行距離を縮めればいい」
「そうゆうこと」
「でも、なまじ降り立つ大地が存在してから悪趣味なんだ。いくら火星と区別つかないくらい荒廃しちまってるとはいえさ」
「生まれたときから地下生活暮らしの市民には、知らされてない事実だ。むしろ、知らない方が幸せなんじゃないのか?」
「そうかねぇ」
「中央政府にも、ゴミみたいな良心は残ってたと思うぜ。宣伝文句は『火星へ』じゃない。『赤い星へ』だ」
「確かに嘘は言ってない。ああやって赤茶けた土をまいとけば、火星らしく見えるもんな。荒み果てた地上でも、やり方次第では利用可能って奴か――よし、直ったな」
「フォボスもばっちり映ってる」
「新月は過ぎてるから“あれ”が見えたら大ごとだ。さ、早く次に行こう」
作業員たちが足早に離れていったあとも、おれはその場に立ちつくしていた。
今の話は何だ? あの窓がスクリーン? フォボスもばっちり“映ってる”って……じゃあ、おれが今いる星はいったい――。
床を踏みしめるようにして、作業員たちが“修理した”という窓へ近づく。幅四十センチ、高さ五十センチほどの小さな窓からは、変化の乏しい火星の大地が見てとれた。その上空には、いびつな衛星フォボス。
ああ……これこそ、おれの見たかったもの。やっぱりここは火星だ。