108本の花のように
幸福の王子
「葵ちゃんにはわからないよ」
また、それだ。出会ってまだ二月だけど、何度それを聞いたか、僕はもう面倒でカウントしていない。
「……まぁ、仕事するには困らないから構いませんけど。本当にここにその人は来るんですよね、朝子さん」
木の枝の上で、黒い薄手の着物を適当に着崩した朝子さんは、足をぶらぶらさせながら頷く。彼女が腰かけた枝は、いくら朝子さんが華奢とはいえ、成人女性ひとりの体重すらとてもとても支えられそうなものではないのに、軋みもしない。
「来るよ。ここ一本道だし。仕事で見るのは初めてだよね。よく、注意してて。葵ちゃんの目なら、生きた人間と違って見えるはずだから」
本来腰を下ろす必要などない朝子さんは、こんな風に何かを待つ時にはだいたいガードレールだとか、木の枝だとか、そういった適当なものの上にいる。本人曰く、様式美なのだという。
しかし、いくら人間らしい見た目だろうと、おそらく今この町で、朝子さんの姿が見える人は、多分十人もいない。僕と、今僕らが待っているその人と、あとは僕みたいな人間が、人口比から考えるとだいたい八人ぐらいか。だから、着物が若干崩れてほぼ太腿が見えてしまっていることをわざわざ指摘する必要もないだろう。
人の目には見えなくても風に揺れるものなのか、まるで喪服のように黒い朝子さんの着物の裾がひらひらと揺れる。どちらかというと浴衣に近いような気がするが、こんなに真っ黒な浴衣を着ている人は見たことがない。
初めて朝子さんに会った日、天気の良い晴れた夜の川べりで、それが気になって一瞬目を向けて、それで朝子さんに気付かれてしまった。
僕が、所謂、他の人には見えないものが見える人であること。そうでなければ、朝子さんと目が合うはずがないのだから。
「近い」
朝子さんが言う。僕は、目を凝らした。
「確認するよ。テレビ番組のシールの貼ったヘルメット、赤い大型のバイク、多分服は赤いよ」
理由はわかる。
「出血をごまかすため?」
「そう。もしくは、血染めかも。刺されたのは首って聞いてる。でも出血の量はそんなに多くないはずだよ」
だって、心臓止まってるはずだし。そう、なんでもないことのように言ってのける彼女は。
「来た!」
朝子さんが叫ぶ。僕は、目の前を猛スピードで駆け抜けていくバイクを見た。
確かに、わかった。
改造車かなにかか。法定速度を大幅に超越したスピードで走るそのバイクに乗った僕と同世代の男は、確かに生きていなかった。
ヘルメットごしに一瞬だけ見えたその表情は、僕らの存在に気付いたのかどうなのか、唇を歪めていて。
「追うよ!」
頷いて、僕もバイクに飛び乗った。朝子さんは一歩先に、あの人を追いかける。
頭の中で復唱しつつ、キーを捻る。
ターゲットの名前は、糸数木蓮。本当なら、七日前に、死んでいるはずの男。
その人を捕らえて成仏させるのが、今回の朝子さんの仕事で、そして僕の助手としての初仕事になる。
朝子さんと木蓮を追って、僕も走り出した。
七日前、町のど真ん中で、血痕が発見された。返り血のついた服を着た女の子も目撃された。だけど、どこの病院にもそれらしき人は運び込まれてはなかったし、死体も見つからなかった。
警察は総力を挙げて被害者を探した。勿論、加害者も。けれど、なんの手がかりも得られなかった。それはそうだろう。被害者は今も、元気にバイクで町の中を走り回っている。とうに心臓の止まった身体を動かして。
「……しっかし、五股って」
朝子さんからもらった資料には、木蓮が死亡した大体の経緯が書かれているのだが、
「女性を五股かけて、そのうちのひとりに刺された」。それが、死因だそうだ。
「ありえない」
女の人なんてひとりと付き合うのだって大変そうだというのに、それを五人。ひとりとしか付き合ってなくたって女性は浮気を疑うものらしいのに、ましてや本当に五人と付き合ってなんかいたら、どう考えてもどこかでボロが出るような気しかしないのだが。
「葵ちゃんにはわからないよ」
「朝子さんにはわかるんですか」
「葵ちゃんよりはね」
五股かけてそのうちのひとりに刺し殺されるような人の気持ちなんて、僕にはわかりたくもないのだけれど。朝子さんは楽しげにふよふよと浮遊しているだけだ。
「……女の人って見かけによらないですね。裏でそんな」
「私は五股なんかかけてないよ?」
爽やかな笑顔で僕の首に鎌を押し当てるけど、まさか殺すつもりはないだろう。僕は素直に手を挙げた。
「冗談ですよ」
すっと鎌が離れていく。冗談なのはお互いだ。
「一応五人の情報も調べてあるから、必要かもしれないし目を通しておいてね」
言われた通りに目を通す。糸数木蓮の五人の交際相手。この中の誰かと共にいる可能性は高いし、この五人は巻き込まずに、ターゲットだけを成仏させなくてはならない。
一人目。一番付き合いの長い彼女。豊島薄荷。現在妊娠八ヶ月。勿論、木蓮の子どもだ。
二人目。一番金をかけている彼女。今浪撫子。多額の借金を背負っていて、どうやら木蓮はその肩代わりをしていたらしい。
三人目。一番時間をかけている彼女。木下菖蒲。なにかと素行が悪く、珍走団に入っているとのこと。
四人目。一番会う頻度の高い彼女。関口茉莉花。心臓と肺に持病を抱えていて、長いこと入院生活を送っているらしい。
そして五人目。谷元花月。彼女が、木蓮を刺殺した本人だ。
正直、大変そうな女の人ばかりだな。このうち豊島薄荷さんはどんな背景を持っているのかよくわからないけれど、少なくとも残り四人はひとりずつにしたって付き合いたいとはとてもとても思えない。
「この谷元花月さんは、今どうしているかわかりますか?」
小さく首を振って、朝子さんは答えた。
「今探しているとこ。糸数木蓮を刺した後、行方がわからなくなってるんだよね。……生きてはいるよ。死んでたらすぐわかる」
「ですよね」
糸数木蓮、二十三歳。家族はいない。アルバイトを三つ掛け持ちして生活をしつつ、五人の彼女と交際していた。
七日前、谷元花月によって首元を刺され、絶命。したはずなのだが、どういうわけか元気に動き回っている。
つまりは、生ける屍。朝子さんたちの仕事は、彼らを捕まえて成仏させることだ。
ごく稀に、そういうことがあるのだという。身体的にはとっくに死んでいるはずなのに、生きた人間と同様に活動できる死体。死んだときに魂と身体が綺麗に離れてくれないとかなんとか。そして僕に見えているのは、体からわずかに遊離した魂のその部分。普通の人間ならば、そんなものは見えない。
「とりあえず、すぐ所在がわかるのは豊島薄荷と関口茉莉花。ふたりとも同じ病院にいるよ。豊島薄荷は産科、関口茉莉花は循環器科ね。今浪撫子は……借金取りに追われてて、あまり家にいないみたい。利息はトイチだそうだよ。木下菖蒲と谷元花月は行方不明」
「なんて錚々たるラインナップ……」
作品名:108本の花のように 作家名:なつきすい