果てなき空
梨佐の声と同時に、手を引かれる。椿は衝動で姫咲の背中を押した。梨佐と椿よりも早く、落ちていく。
「お前も一緒だ、姫咲!」
呼びかけた目の前には空があった。足元には崖、その先に海が。広い世界がそこにはあった。
つなぐ手はあたたかい―――梨佐の、手だ。
五人は音を立てて、次々に海へと飛び込んだ。海水が目に入り、口に入り、気持ちが悪い。けれど、それでも悪くない気分だった。
「君たちは馬鹿ですか!?馬鹿なんでしょう、そうに決まってます!」
姫咲のかなり頭にキているらしい、怒鳴り声が響く。それを聞きながら緋桜と倭の笑いは止まらなかった。椿はびしょびしょに濡れた長い前髪をかき上げながら岸までどうやって泳ごうか考えていた―――そう遠くはない距離だ。
「平気か、梨佐」
「あんまりだけど……みんないるから、平気」
椿も、海面に打ちつけた場所が痛んでいた。さほど高くはない所だったからよかったものの、勢いで飛び込んでしまうほど安全な環境ではなかったかもしれない。
5人揃って立ち泳ぎだ。これも長くは続きそうもないだろう。
「あああ、塩でベタつく……」
緋桜が濡れた頬を触りながら、気持ち悪さを顔いっぱいに表現する。身包みそのままに飛び込むのが悪いだろう。
ピンク頭につけていた金属性の髪飾りを取りながら、「これ錆びるやんな」などと今更ことを呟いていた。
「緋桜、お前が飛んだんだろうが」
「ちゃうもん、やまさんが最初に飛んでんもん。おれちゃう」
「おま、人に責任押し付けんじゃねーよ!」
「あだっ」
「緋桜くん、アナタって人は……!」
白々しく言ってのける緋桜に、倭の拳が炸裂する。姫咲はそのやりとりをほとほと呆れ返ったふうに見ながら、それでも顔は笑っていた。
椿は、空を見ていた。
(―――……)
きれいだと、思った。
なにかを悩んでいたというわけではないけれど、何故か消えていくものがある気がした。心が透き通っていくような、不思議な感覚がある。
「ん、椿、何笑ってんだよ?」
「君たちが、ばかだからに決まってます。ねえ椿くん」
「……いや?」
笑いがこぼれる。落ち込んでいたのか。そうかもしれない――今となってはどうだっていいことだ。きょとんとした三人の顔が見える。梨佐だけが、どこか嬉しそうな笑みを見せていた。
「ッハハ、ははは……楽しいなと、思って」
「これがあ!?」
険悪な表情を見せるのは姫咲だ。いいじゃないか、楽しいなら。そっちだって、なかなかに悪くない顔をしている。
「悪いか?」
「あたしも、楽しいと思う」
「――もういいですよ」
否定するのにも疲れたらしい。椿は梨佐と目が合って、笑い合った。倭と緋桜はまだやりとりを続けている。楽しそうに、水を掛け合って。
「空、きれいだね」
「ああ、――そうだな」
椿は、見上げた。青い空、白い雲、まぶしい太陽を。
気づかなかった。世界は、こんなにきれいに見えるものだったんだ。
「なんやねん、ばっきん。溺れるで」
「いや、なんでもない」
我に返ると、椿は少しだけ、置いていかれていた。
緋桜がきょとんとした表情で、振り返っている。倭はひとり背泳ぎで、もう五メートルより先にいた。姫咲が不機嫌そうにそれを追い、梨佐は緋桜の隣で笑っている。
「今、行く」
答えれば、緋桜と梨佐が笑う。泳ごうと体を動かせば海水が口元にあたって、塩辛いのがなんだかおかしくて楽しかった。
ひとりではみえなかったものも、誰かがいれば変わっていく。椿にとって、ただそこにあるだけだった空がなぜか――暖かく、見守っているもののように感じていた。
【果てなき空*END】