花火
今日は八月十七日。この地区では今日、毎年花火大会が開かれる。
この県では最後の夏の花火だからたくさんの人が来て、大いに盛り上がる。
昼ごろに雨が降ったので、花火大会を心配し、天気予報を見てみた。
いまから夜にかけて、そして夜から明日も快晴のようだ。気温もそんなに高くない。
真夏のピークは過ぎたとアナウンサーは伝える。
ほんとうだろうか。人々はまだ夏の暑さにざわついている気がする。
――いや、ざわついているのは俺か。
「涼(りょう)、浴衣ここに置いておくわね。そろそろシャワーあびたら?」
「おう」
適当に返事をして、ざわつきの正体をそっと探ってみる。
「おふくろ」
「なに?」
「凪(なぎ)ってさ、今どうしてんの?」
「おとなりの凪ちゃん?さあねえ…あんた仲良かったじゃないの。聞いてないの?」
「聞いてねえから聞いてんだよ」
凪は俺の幼馴染み。家が隣で、子供の頃はずっと一緒に遊んでいた。
あいつは女のくせに男みたいなやつで、このへんじゃ一番ケンカがつよかった。
ガキ大将にいじめられた俺を助けてくれたこともあった。
そうやっていつでも一緒に遊んで、一緒にいて、お互いにお互いを知りつくしていた。
もっともそれは幼稚園や小学生くらいの頃の話で、歳をとるにつれて離れて行った。
そして俺が今のあいつを知らないということはそう、とうとう会うのが最後になった日もきた。
それは最後にあったのは十年前の今日。そう、ちょうど今日のように昼に雨が降った日で、涼しい夜だった。
俺の意識は十年前の花火大会の帰り道に飛んでいた。
花火大会の帰り道は、しんと静まっていた。
昼に降った雨の湿気がひんやりと肌を包む。見上げると、雲ひとつない空に満天の星。
「綺麗な空だな」
「うん、雨降ったからね。全部雨になって雲が消えたんだよ」
涼の言葉に凪は答えた。
カラカラと下駄の小気味よい音が二人分聞こえる。それ以外には音が何もない。
いつもはうるさい蛙や虫もいない。風の音すらしない。
静かすぎる夏の夜は切なくて、涙がこみあげそうになるのを必死にこらえた。
凪はそんなことは少しも思わないらしく、子供のように肩を揺らしながら楽しげに歩き続けている。
「…綺麗な空だな」
涼は同じ言葉を繰り返す。沈黙が怖かった。
「なんだよ涼。なんか変じゃね?」
凪は朝顔柄の水色の浴衣をひらひらと泳がせてけんけんぱをしている。
丸っこい肩、細いうなじ。いつの間にこんな大人な女っぽくなったんだよ。
家が近所で、赤ん坊の頃から一緒にいた凪と涼は、高校三年の今に至るまで兄弟のように仲良しだった。
学校がたがったこともない。そのうえ凪の父親がスポ少の剣道の監督をしていたので、近所のよしみで涼はずっと剣道をしていたし、凪も父や兄に付いて行って剣道をしていたからクラブまでも一緒だった。
中学に上がっても二人で同じく剣道部に入部した。朝練があれば一緒に登校したし、夜遅くまで練習したら同じ道を二人で下校した。
お互いがお互いを見てきた。はずだったのに気付かない間にお互いは変わった。
凪は身体が丸みをおび、曲線を描くような体型になった。
涼は肩幅ががっしりとし、昔は凪とどんぐりの背くらべで競っていた身長はいまや二十センチも大きい。
――変わってしまった。もう昔には戻れない。
****
凪はけんけんぱを続けながら、振り返らずに話す。
「あのさあ」
「なに?」
「……」
「いきなり黙んなよ」
笑っても、凪は黙ったままだ。急に言いようもない不安が襲ってきた。いつもの、大声で笑い転げるような凪の面影が無い。
「…どうしたの?」
「なんでもない!涼は進路決まった?」
「え……お、おう。となりの県の大学にいく」
「へえ、あの涼でもちゃんと考えてんだ!」
もう高校三年の八月だ、さすがに決まっていた。
「あのってなんだよ、じゃあお前は決まってんだろうな?」
「決まってるよ。イギリスに行く」
「は?」
凪は唖然とする涼を笑いながら話を続けた。
「留学だよ。昔から英語、得意だったでしょ?」
「ああ、そうだっけな。すげーじゃん」
「ふふ、ありがと」
凪は、まだ振り返ろうととしない。
「気をつけろよ。お前みてえな奴はすぐ犯罪に巻き込まれるんだから」
「なんでぇ?」
「なんでって……幼稚園の頃は風邪薬をラムネと間違って山ほど食って意識不明になって救急車にのったし、小学生の頃は野外学習で川でおぼれるし、中学の時は階段踏み外して、盛大にパンチラしながら足ひねっただろう」
赤面してばっと振り返る。ああ、いつもの凪だ。
「凪は要するに、気をつけようとする警戒心が薄いんだよ」
「ぐわあぁ、触れられたくない傷がぁぁ!」
わざとらしいそぶりで苦しむ真似をする。涼は思わず笑ってしまった。
「ったく、いつまでもバカばっかりしてんなよ」
「わかってるよ、てゆーか涼には言われたくないし」
からん、ころん、からん、ころん。
「……涼にはなんでも筒抜けだね」
さっきとは打って変わって、凪の声は三日月みたいだった。
「ガキの頃から何年も一緒にいるからな」
「そうだよねえ…」
ずっと一緒だったのに、涼は隣の県の大学に、凪は外国に行く。
いつか来るはずだった分かれ道が、何年も経ってやっといまやってきた。
あまりに一緒に歩んできた時間が長かったから、別れは残酷だった。
水色の浴衣がたよりなく揺れている。なんだか折れてしまいそうだ。
手でも肩でも引き寄せてしまいたかったけど、一緒にいた時間が邪魔をした。
兄弟でも友達でもまして恋人でもない自分たちは、いったいどのようにすればいいか解らない。
兄弟のように全てを分けあえるわけでもなければ、友達のようでは他人行儀すぎたし、恋人のように甘い関係のように行動するのは、それはそれで違うと思った。
名づけられない感情が歯がゆかった。子供の頃に一度か二度、凪が好きになったことがある涼は、そのつど必死で自分を否定し、好きではないと思いこんできた。だから今となって自分は凪をどう思っているのか解らない。本当の気持ちを否定して、嘘の気持ちを肯定してきたから、本当がなになのかわからなくなってしまった。
だからなおさらどのようにしていいかわからない。自分の行動がすべて空々しいような、本当にしたいと思っているような、こんがらがった気持だった。
「ねーねー」
凪の白い指が、涼の紺色の浴衣のすそをひっぱる。
「ん?」
「嘘なの」
「は?」
凪はちょっと首をかしげて、苦笑する。
「だから。嘘なの、留学とか」
「え?どういう意味だよ」
凪はまた黙りこむ。
今日は凪の様子がおかしい。いきなりの嘘、かげった目。今日は凪の本心が読めなかった。
このままでは凪が凪でなくなってしまうような言いようのない不安に襲われる。凪の肩を掴んでおもわず大声をだしてしまった。
「わけわかんねえよ、マジでちゃんと説明してくれ」
「お嫁にいくの」
心臓が飛び出そうなほど高鳴った。
「よめ…?」
「そう。親戚のところ」
凪の実家は旧家で、本人は聞いたことがなかったが実質的に許嫁がいたのだそうだ。
「古い家だからさ。しきたりとか、由緒ある人に嫁げとか、そういうのあるんだって」