時夢色迷(上)
杏香の方を見た陽幸の顔は、悲しそうな顔をしていた。その問いかけに、杏香は答えることが出来ない。確証が無いから。
「それに……最初にあの子に言われたじゃないですか」
そこで、一つ息をついた。杏香の表情は不安に曇っていく。
「此処は、時間と夢が無い空間だって」
その時、杏香の脳裏に浮かんだのは、あの真っ白な天使。感情を映さない灰色の目で言われた、あの言葉。
「そうね……でもいいわ。昼寝感覚で、休みましょう。カーテンを全部閉めれば、千秋君も気付かないじゃない?」
少しの間考えて、パッと笑顔に戻る杏香。
「そうですね! あんちゃん変わりましたね!」
さっきまでの心配そうな表情は、一気に吹き飛んで笑顔になる陽幸。
「変わった? 何処が?」
「う~ん……何処かが!」
考えてから、思いついたような顔をするが全くもって答えになっていない陽幸に、杏香は笑った。
「ひさ君も、そんなに小さい時から悩んでたら駄目よ?」
「ち……小さくなんかありませんよ! ちょっとだけ、身長が低いだけですよ!」
ぷっくと、頬を膨らまして怒る陽幸に、杏香はついつい笑ってしまう。
「どうして、笑ってるのですか! 失礼ですよ!」
「だって、千秋君と同じこと、やってるんだもの」
クスクスと、いつまでも笑っている杏香に、ついつい陽幸も笑えてきてしまう。
「あれ? 二人して、何わろてるん?」
帰ってきた千秋は、二人して笑っている光景にクエスチョンマークを沢山浮かべている。
「何にもないわ。ただ、ひさ君と千秋君が似てるね、って話をしてただけよ」
ツボにでも入ったのか、杏香はまだ笑っている。平然としているつもりだが、肩が勝手に笑ってしまう。
「ホンマ? 僕と陽幸くん似とる?」
嬉しそうに、陽幸の腕を抱えながら杏香に問いかける。目は、キラキラと輝いている。陽幸も、嬉しそうに微笑む。
「ええ。とても似てるわ」
「やったぁ! 陽幸くん、僕ら似てるんやって!」
抱きついていた腕に、頭を添えて陽幸を見る。
「まつくんはしゃぎすぎですよ!」
そう言っておきながら、陽幸も嬉しさで顔いっぱいにしていた。
「やって、嬉しいねんもん♪」
白い歯を見せながら、楽しそうに笑う。陽幸も、同じように笑った。兄弟だといってもばれないくらい、そっくりだった。この時、千秋の周りから色が出ていたが、杏香も笑っていたため、それには気付けなかった。そして、小さな色の光は千秋の中に小さくなって戻っていった。
「それにしても、帰ってくるの遅かったですね? 何してたんですか?」
不思議そうに聞くと、千秋は何かを企んでる様な顔をして笑った。
「秘密やで~」
「教えてくださいよ~」
「教えなさ~い」
逃げるように走り出した千秋を、二人は面白がって追いかける。いつの間にか、公園から出ていた。
「あっ!」
いきなり大きな声を出した陽幸に、びっくりして転びそうになる杏香と、完全にこけてしまう千秋。ついでに、眼鏡も少し遠くに外れて落ちる。
「いたた……もう、何なん? いきなり大きい声出して」
こけた時に打った肘をさすりながら、眼鏡のある方向に手を伸ばす。
「いや、ここなんですよ! ホテル」
「あら、もうついてたの」
陽幸が、右手の方向を指さす。そこにあったのは、真っ白のホテル。
「うわぁ! 高そうなホテルやね!」
千秋は、嬉しそうにホテルを見る。リゾートホテルのようだ。
「こんなとこ、僕来たことあらへんよ! わくわくするなぁ!」
「じゃっ、さっそく入りましょ!」
陽幸が先頭に立ってホテルの中に入っていく。
「すごい……」
ホテルの中に入って、杏香は目を疑った。そのロビーは、色は白だけど、細かいところまで細工が入っていて、大きくて透明なシャンデリアが輝いている。真っ白の絨毯が床には敷き詰めていてあって、絨毯の無い場所は大理石だろうか。置いてある机や椅子も高級品だろう。庭が見える大きなガラスは四階と同じぐらいの大きさだ。
「ほんまに……高級ホテルやん……」
呆然と立ち尽くす千秋。
「まつくん! 同じ部屋になりましょ!」
「そ……そやね! 部屋こっちやろか?」
陽幸に手を引かれながら、ホテルの中を駆け出した千秋。
「ほら,杏香さんも行こや!」
後ろを向いて杏香に笑いかけると、我に返った杏香は二人の後を追いかけた。
「ちょっと待ちなさい!」
「嫌ですよ♪」
一度止まってそう言うと、楽しそうに笑って千秋の手を引く。一度止まっていたからか、千秋はこけそうになる。
「こけるって! もぉ、陽幸くん!」
口では、そう言いながらも千秋も楽しそうだ。
「あっ! あれ部屋じゃないですか?」
陽幸の指さした場所には、装飾の施された部屋のプレートがかかっていた。
「みたいやねぇ」
少しずつ走る速度を落としていき、部屋の前で立ち止まる。丁度、向かい側にも部屋がある。
「あら……部屋ね。じゃぁ、そっちはひさ君と千秋君の部屋で、こっちはうちの部屋でいい?」
「え? 杏香さんは同じ部屋や無いん?」
不思議そうな顔をする千秋に、杏香は声を殺して笑った。
「むっ……まつくんは、ボクとだけじゃ嫌なんですか?」
千秋の腕に抱きついて、頬を膨らます陽幸。
「そうゆう訳や無いよ」
「じゃぁ、良いじゃないですか!」
さらに強く腕を引く陽幸。杏香は、不思議そうに陽幸を見る。
「なんだか、千秋君が来てからわがままっ子みたいになったわね……」
口に手を当てて、小さく首を傾げて考える杏香。
「だって……大切な、は……」
どんどん小さくなっていく言葉は聞き取れない。
「『大切な』なんなん?」
「ふぅ……何でもありませんよ」
ため息に似た、安堵の息をついてから、部屋の扉を開ける。
「さっ! 休みましょ!」
「せやねぇ。ほな、杏香さん。また明日なぁ」
手を振って部屋の中に入っていく千秋に、杏香も手を振りかえす。
「大切な……何なのよ……」
ぼそりと呟いて杏香も自分の部屋に入っていく。
部屋に入ると、千秋はブレザーを脱いでネクタイも外して、ハンガーにかけて部屋に吊るした。
「広いなぁ……二人では……もったいないくらいやなぁ……」
ベッドに座りながら、眠そうに目をこすって陽幸に話しかける。
「まつくん? 眠たいのですか?」
「うん……ちょっと眠いわぁ」
千秋はそのままにへらと笑い、小さく舟をこぐ。陽幸は、千秋に近付く。
「寝ていいですよ。寝ましょうよ!」
「うん……陽幸くん。傍にいてなぁ……」
ベッドに転がると、ぎゅっと陽幸の空色のシャツを掴んでいた。
「はい。ボクは、此処に居てますよ」
返事が無いことに気が付き、ふっと千秋を見てみると、すでに可愛らしい吐息をたてて眠っていた。
「やっぱり……ボクの時間は止まってしまっているから……かな?」
自分の手を見て、そのまま、ただただ白いだけの空を悲しげな瞳で見た。
「ちーくん……」
ぼそりと呟くと、愛おしそうに千秋の頭を撫でて既に力の入っていない千秋の手から、自分のTシャツを離させる陽幸。
「ちーくんは、ボクの事覚えてないのかな……」
悲しげに呟くと、窓際のリクライニングソファに、その身を預けた。
「時間って……酷いね」
風も吹かない、天候も変わらない、色も無いこの世界の空でも、陽幸の目には悲しげに映った。