不思議な空間
夕暮れ前
海辺に在るその民宿の背後を、鬱蒼と茂る樹林が取り囲んでいる。昨夜遅く電話で予約した彼が、疲れ果てて漸くそこに到着したのは、その日の午後三時半のことだった。彼は夜明け前に出て、ずっと車を運転して来た。ひげ面の初老の主人が、すぐに二階の個室に北を案内してくれた。
「東京から休憩なしで、一人で運転して来たんですか。その若さが羨ましいですよ」
六畳の和室の窓からは、微妙な色合いの美しい夕暮れ前の海と、少し霞んで岬の突端の、既に光を放ち始めている灯台が見えた。微かに聞こえて来る潮騒が、北良平の旅情をかき立てている。
「ご主人もまだまだ若く見えますよ。五十代という感じです」
「ありがとうございます。そろそろ引退したいんですがね、そうすると老けるのが早いというから……」
日焼けした笑顔の主人は、如何にも健康そうな印象だった。
「働けるうちは働いたほうがいいと思います。身体が鈍って寝たきりにでもなったら、つまらないですからね」
「あと五年は頑張りますよ……今日の夕食は六時です」
「よろしくお願いします……少なくとも、あと二十年は頑張ってください」
北は宿の主人と共に階下へ行き、一旦ひとりで屋外に出た。そして、建物の裏側の急な石段をかなり登り、高台にある露天風呂に来た。