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曲がり角

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『曲がり角』
 

暑い日が続いた月の下旬のことである。突然、彼女から「会って、話したいことがある」と言われた。何か嫌な思いがした。というのも、めったに彼女から電話を寄越すことがなかったからである。週末、信濃川のほとりにあるホテルの居酒屋で会う約束をした。

その日は夜になっても暑さがおさまらなかった。
居酒屋に入ると、窓辺の席に座った。そこから、高く昇っていた月が滑らかな信濃川の川面に黄金色の影を落としているのを眺めることができた。
食事をとりながら、ありふれた世間話をした。
三十分くらい経っただろう、突然、彼女は沈黙した。何か思い詰めたような顔をして、こっちを見つめた。
「どうした?」と聞くと、
「役者になりたいの。だから劇団に入ることにした」と告白した。
 三十五になる彼女は、親と同居し、愛猫を二匹飼い、休日には家庭菜園で野菜作りを楽しんでいた。演劇というのに興味があるのは知っていたが、まさか、その世界に入りたいとは……。あまりにも突然で、どう受け入れれば良いか分からず、ただ平静を装うのか精一杯だった。
「本当に?」
彼女は神妙な顔でうなずく。
「どこにある劇団?」
「大阪にあるの」と彼女は微笑む。
「もう決めたのか?」
 彼女はうなずく。
友達のようで恋人のような、ある意味、心地よい関係が十年続いた。劇団に入るために新潟を去るということになれば、その関係に幕が下りることになる。引き止めたい気持ちがあったが、なぜか言葉にならなかった。言ったところで無駄だと思ったからである。なぜなら、彼女は一度決めると、梃子でも動かせないタイプだったから。
ふと、長岡祭りの花火が一週間後にあることを思い出した。
「長岡の花火、一緒に観ないか?」と誘った。
「いいよ」と彼女は快く応えた。 
 
 八月三日、花火大会の夜、晴れて、風もなく絶好の花火日和であった。
 六時半に長岡駅前で待ち合わせをした。
二年前にも一緒に観たことがある。その時は浴衣姿だったが、今回は普段着の姿で現れた。まるで、「祭りに浮かれていないよ」と言わんばかりである。
花火会場に向かって一緒に歩いた。
どこもかしこも人の波で、あちこちから笑いやどよめきが起こる。みな信濃川の河川敷に向って歩いている。
花火は反対側の河川敷から打ち上げられる。その対岸の河川敷で観るのが一番良いのだが、事前に座席券を購入しないと座れない。信濃川にかかる橋のたもとに着いたときは、河川敷だけでなく、土手までが観客でいっぱいだった。仕方なしに、橋の手前の道路で観ることにした。
ビールを片手に打ち上がるのを待った。
花火が始まる放送が流れた。
彼女が、「いよいよ、始まるね」と彼女は嬉しそうな声で言うと、向こう岸から大きな音ともに花火が打ち上がった。
花火がさく裂し漆黒の夜空に大輪の華が咲かせると同時に大歓声が起こる。大輪の花は一瞬のうちに散るが、息をつく暇もなく次々と上がり、色鮮やかに夜空を染める。
「こんな大きな花火を観たら、他の花火なんか観られないね」と彼女はビールを片手にはしゃぐ。
「長岡花火は特別だよ」と調子を合わせた。
「花火って、あっという間に散るね。きれいだけど、何だか切ないね」
ほほ笑んでいたが、その横顔はどこか寂しそうにも見えた。同じようなほほ笑みを見たことを思い出した。――二十年前、末期がんと宣告された父と一緒に花火を観た。打ち上がる花火を観ていた父が、「人生も花火のようなものだ。あっという間だ」と父はほほ笑んだ。既に死を覚悟していたのであろう。その横顔は寂しそうであったが、どこか清々しさを感じさせた。
彼女の横顔もその時の父と同じように見えた。覚悟した者だけが持つ、どこか凛とした雰囲気があったのである。
「あっと言う間に散るからいいのさ」
 彼女は黙ってうなずいた。
 それから、会話をすることなく花火を観た。何か話そうと思っても何も言えなかったのである。
花火が終わった後、
「食事にしようか?」と誘ったが、
「嬉しいけど、今日は疲れたから、帰る」と言った。
「駅まで送るよ」
 彼女はうなずいた。
 ゆっくり歩きながら、思い切って、なぜ劇団に入ろうとしたのかを尋ねてみることにした。
「今までの生活に不満があったのかい?」と聞くと、彼女は首を振った。
「じゃ、なぜ? 今の生活を捨てて劇団に入る?」
「大好きだった親戚の人が死んだの。命って、あっけなく消えてしまうと分かった。そして、消える前に、今すぐやりたいことを行動に移さないといけない。そう思ったの」
 その親戚の話は何度も聞いたことがある。数え切れないほど見舞っていたことも。
「やりたいことか。俺にはないな、これといって。このまま終わったら、この地上に何も痕跡を残せぬまま消えてしまうような気がする。今は会社にいるから良いけど、いつか定年を迎える。そうしたら、一日、一日、何をすればいいのか分からない? 何も思い浮かばない。ただ生きていくだけの人間になってしまう。そんな自分を想像したくない。何かをやらなければいけないと思っているけど……仮にやりたいことがあっても、君のように吹っ切れないと思う」と笑った。
それは自分でも実に不自然な笑いであることが分かった。
「そうね……でも、私もそんな簡単に吹っ切れたわけじゃない。思い悩んだ。母からも姉からも大反対された。でも、何かが背中を押したの。このままでいたら、ふっと自分が消えてしまうような気がして。私は今までいろんな病気になった。そのせいもあるかもしれない」
 華奢で簡単に折れそうな、その身体で母親と二人で、父親の借金を返してきた。ヘルニアになり大きな手術をした。交通事故にも遭った。つい最近、転んで肋骨も折った。不幸が次々と彼女を襲ったにも関わらず耐えて生きてきた。この人を助けてやりたかったが、結局できたことは見守ることしかできなかった。二人の間にある大きな隔たりを飛び越えることができなかったのである。歳が大きく離れていた。歩んできた人生も大きな違っていた。その隔たりを飛び越える勇気がなかった。何よりも前に愛した女のことも忘れられずにいた。狂おしいほど愛したのに、突然、事故で亡くなった。その時に空いた心の穴を引きずったまま生きてきたせいで、恋愛というものに臆病になっていた。
「いつ、大阪に行く?」
「お盆過ぎに行く」
「そんなに急に!」
「そうね」と他人事のように言う。
 彼女は立ち止まった。
「女にとって、三十五というのは曲がり角なの。結婚して子どもを産むか、それとも一人で生きるか。私は結局、結婚を選べなかった」と寂しそうにほほ笑む。
 彼女の手を握った。その小さな手はひんやりとしている。彼女は軽く握り返した。
 彼女はまた歩き始めた。時間が止まって欲しかった。しかし、そんなことは叶うわけではない。駅は少しずつ近づいてくる。
「もらったシェークスピアの本、面白かった。『人生はただ歩き回る影法師、哀れな役者』というセリフは良いわね。赤い線が引いてあったけど」
 確か一か月前にあげた文庫本だった。
「人生はきっと花火よ。ぱっと咲いて散るの。その前に、生きたという実感を掴みたいの。変かな?」
「十分、変だよ」と言うと、
作品名:曲がり角 作家名:楡井英夫