写真 終章
人は平静な時には考えられないようなことをしたり、感じたりするものだ。 怒り そして悲しみの極限下では 特に。
その感情の重みに耐え切れず、あるいは自己崩壊を察知した時に、ほぼ自動的に 脳は一種の「回避行動」の指令を出す。 そう聞いたことがある。
そして知識と実際の体験とは、心理学のマニュアルの通りではない。 本質では差異はないのかもしれないが、それぞれの「感覚や認識、反射行動」は 偶発的にさえ思えるし しばしば自分が特異であるかのようにも感じるものだろうと思う。
いずれにせよ、私は「普通」ではなかった。
その日から幸子の入院生活が始まった。 若い幸子には考えられなかったが、彼女は検査と経過観察のあげく、一種の筋肉の神経伝達異常だという診断が出た。
誤嚥の恐れもあり、経口では食事も摂れず、胃に穴を開けて食物を流し込む期間が一ヶ月。
そして「胃」の機能すらおぼつかなくなり、高カロリーの点滴に切り替わった。
幸子はみるみる痩せてしまった。
顔や体には年齢にそぐわぬ皺が出て、とても20代半ばの娘には見えなくなっていた。
もう以前の幸子の顔を 想像することは出来ないほどに・・
1年以上が 経過した。 幸子はそれでも よくもちこたえていた。
妻・美幸の落ち込み具合も尋常ではなく、家事もままならぬ日も増え、「婚約者」の聡君には
私から、離別・・すなわち、幸子のことはもう忘れて欲しい、という宣告を言い渡した。
それでも彼はお見舞いを続けてくれたが、木枯らしが吹く頃の、ある日曜日から、姿を見せなくなった。
彼を責めるのは非道いことだ。 彼には彼の将来がある。 それをそうと納得することも、彼にとってとても必要なことだ。
私は彼にそういう説得をしたのだ。 いや「懇願」と言ってもいいだろう。
なにより辛かったのは、私ら夫婦が交代で看病に就く日々の間、幸子はいつも「笑顔」で迎えてくれることである。
一番辛く苦しいのは彼女なのに、、
寒い夜だった。
個室のベッドで私は本を読んでいた。 すると、突然、幸子が声を出した。
「パァパ パァパ? 」
「うん? どした? さちこ なんだ?・・」とベッドサイドに行くと、
幸子の目から 涙が一筋、横に流れている。 耳の穴に入るといけないので、ガーゼでぬぐいながら
私はありったけの笑顔で 幸子に語りかけた。
「どうした? 何か言いたいんだね? 」
「パァパ・・ ゴベン・・ネ 」 「パァパワ シデタンデショ・・? ママノ ゴト・・」
「ん・・ママがどうした? ママがどうかしたのかい?・」
「・・ ママハ ウバキヲ バエノ ダンナト ウバキヲ 」
「バダシワ ジッデタノ パァパモ ジッデタ チバウ? 」
そういう幸子の目から、あとからあとから、涙が流れ出てくる。 とどめようもなく、、
「サチコ・・」 「パパはね 悪いパパだったんだよ 」
「パパは そんなことは ・・ ああ、いや、もう本当のことを言おうな 」
私は幸子の手を取って、ゆっくりと 指をからませて 言った。
「そうだよ パパは『知っていた』さ・・ 」
「あんなにいつもいつも 遊んでくれるママの友人なんていやしなかったさ。 ハハハ・・
女のくせに、ママはウソがヘタだったね」 不自然だとは判ってはいたが、私は微笑んでそう言った。
「パァパ・・ カバイゾウ・・ 」 「パァパハ デン・・デン ジアワゼジャ ナカッタドネ 」
幸子のおぼつかない発音での会話は 今までの2~3倍の時間がかかる。
かれこれ1時間半が経とうとしていた。 その間に検温と尿パックの取替えで、看護師が一度、側に来た。
幸子はこんな状態であっても、私のことばかりを心配し、可哀想だ、と パパがかわいそうだ、と泣き続けて、そしていくら制しても、話すことを止めなかった。
「幸子、、 パパはね パパはずっと そう 初めてお前に会ったあの日のことを忘れてはいなかったよ パパはママに感謝してるんだ。 幸子のような良い子を連れて、こんな面白くもない男のもとへ 来てくれたんだぞ? そして そしてな パパと幸子が あんまり 仲がいいので、、まるで実の親子のように、 いや、そうじゃないな こんな父と娘が あっていいのか?ってほど仲が良かったから、 たぶん 淋しかったんだろうな 母としても、女としてもな・・
パパはそう思うよ。 幸子のせいじゃない パパがママや 幸子に 甘えていたんだと思う。
だからママを責めるのは いけないことなんだよ ママを本当に大切にしてやれなかったパパがだらしない男だったんだ。 冷たいのはパパだ。 パパは仕事に明け暮れ、幸子に背中を流してもらい・・ ずっと自分のことしか 考えていなかったんだよ・・
幸子、 もう泣くのはおやめ。。 お願いだから もう 何も言わないでおくれ・・」
幸子は黙って聴いていたが、片方の目をしばたかせながら、ずっと泣いていた。
「パァパ・・ ワダシ ダカラ 『イッダノ』 アノドキヘ 『イッダノ』 」
「ん・・・?? 行った、、と言ったのか? どこへ。。行ったんだ? 」
「あの時、、っていつのことだい? 」
「パァパ・・ パァパド ママガ イジバン ジアワセダッタ アノドキ アノバジョヘ・・・」
私は多分 顔面が蒼白になっていただろう。 あの眩暈が また 襲ってきた。
「あのしあわせだったとき・・ あのばしょ・・へ・・ だって???・・・・・」
「ウン・・ パァパ ・・・ビタンデショ?? モウズット バエニ アド ジャジン ヲ・・」
「バダシ・・ ドギドギ ドベダノ ・・ ゴゴドダゲガ ドベダノ 」
「ゾレハ バエニ ジンダ ドギガラ ・・・」
「デンブ バダシガ ワドゥイノ・・ 」 「パァパ・・ハ バルク ナイノ 」
「パァパ ゴベンダザイ・・ ゴベンダザイ・・」
この時、 「時の輪」が 繋がった。
幸子は 「心が飛べた」と言った。 「前に死んだ時から・・」 と言ったのだ。
めまぐるしく私の思考は 回転していた。 だが、どこに落ち着いたらいいのか判らなかった。
「、、、そんなバカなことが・・ 」 「あの写真の ・・ あの女性は・・
あれは 幸子なのか? 」
その時、私の頭の中で、二人の幸子が一つに重なった。
その感情の重みに耐え切れず、あるいは自己崩壊を察知した時に、ほぼ自動的に 脳は一種の「回避行動」の指令を出す。 そう聞いたことがある。
そして知識と実際の体験とは、心理学のマニュアルの通りではない。 本質では差異はないのかもしれないが、それぞれの「感覚や認識、反射行動」は 偶発的にさえ思えるし しばしば自分が特異であるかのようにも感じるものだろうと思う。
いずれにせよ、私は「普通」ではなかった。
その日から幸子の入院生活が始まった。 若い幸子には考えられなかったが、彼女は検査と経過観察のあげく、一種の筋肉の神経伝達異常だという診断が出た。
誤嚥の恐れもあり、経口では食事も摂れず、胃に穴を開けて食物を流し込む期間が一ヶ月。
そして「胃」の機能すらおぼつかなくなり、高カロリーの点滴に切り替わった。
幸子はみるみる痩せてしまった。
顔や体には年齢にそぐわぬ皺が出て、とても20代半ばの娘には見えなくなっていた。
もう以前の幸子の顔を 想像することは出来ないほどに・・
1年以上が 経過した。 幸子はそれでも よくもちこたえていた。
妻・美幸の落ち込み具合も尋常ではなく、家事もままならぬ日も増え、「婚約者」の聡君には
私から、離別・・すなわち、幸子のことはもう忘れて欲しい、という宣告を言い渡した。
それでも彼はお見舞いを続けてくれたが、木枯らしが吹く頃の、ある日曜日から、姿を見せなくなった。
彼を責めるのは非道いことだ。 彼には彼の将来がある。 それをそうと納得することも、彼にとってとても必要なことだ。
私は彼にそういう説得をしたのだ。 いや「懇願」と言ってもいいだろう。
なにより辛かったのは、私ら夫婦が交代で看病に就く日々の間、幸子はいつも「笑顔」で迎えてくれることである。
一番辛く苦しいのは彼女なのに、、
寒い夜だった。
個室のベッドで私は本を読んでいた。 すると、突然、幸子が声を出した。
「パァパ パァパ? 」
「うん? どした? さちこ なんだ?・・」とベッドサイドに行くと、
幸子の目から 涙が一筋、横に流れている。 耳の穴に入るといけないので、ガーゼでぬぐいながら
私はありったけの笑顔で 幸子に語りかけた。
「どうした? 何か言いたいんだね? 」
「パァパ・・ ゴベン・・ネ 」 「パァパワ シデタンデショ・・? ママノ ゴト・・」
「ん・・ママがどうした? ママがどうかしたのかい?・」
「・・ ママハ ウバキヲ バエノ ダンナト ウバキヲ 」
「バダシワ ジッデタノ パァパモ ジッデタ チバウ? 」
そういう幸子の目から、あとからあとから、涙が流れ出てくる。 とどめようもなく、、
「サチコ・・」 「パパはね 悪いパパだったんだよ 」
「パパは そんなことは ・・ ああ、いや、もう本当のことを言おうな 」
私は幸子の手を取って、ゆっくりと 指をからませて 言った。
「そうだよ パパは『知っていた』さ・・ 」
「あんなにいつもいつも 遊んでくれるママの友人なんていやしなかったさ。 ハハハ・・
女のくせに、ママはウソがヘタだったね」 不自然だとは判ってはいたが、私は微笑んでそう言った。
「パァパ・・ カバイゾウ・・ 」 「パァパハ デン・・デン ジアワゼジャ ナカッタドネ 」
幸子のおぼつかない発音での会話は 今までの2~3倍の時間がかかる。
かれこれ1時間半が経とうとしていた。 その間に検温と尿パックの取替えで、看護師が一度、側に来た。
幸子はこんな状態であっても、私のことばかりを心配し、可哀想だ、と パパがかわいそうだ、と泣き続けて、そしていくら制しても、話すことを止めなかった。
「幸子、、 パパはね パパはずっと そう 初めてお前に会ったあの日のことを忘れてはいなかったよ パパはママに感謝してるんだ。 幸子のような良い子を連れて、こんな面白くもない男のもとへ 来てくれたんだぞ? そして そしてな パパと幸子が あんまり 仲がいいので、、まるで実の親子のように、 いや、そうじゃないな こんな父と娘が あっていいのか?ってほど仲が良かったから、 たぶん 淋しかったんだろうな 母としても、女としてもな・・
パパはそう思うよ。 幸子のせいじゃない パパがママや 幸子に 甘えていたんだと思う。
だからママを責めるのは いけないことなんだよ ママを本当に大切にしてやれなかったパパがだらしない男だったんだ。 冷たいのはパパだ。 パパは仕事に明け暮れ、幸子に背中を流してもらい・・ ずっと自分のことしか 考えていなかったんだよ・・
幸子、 もう泣くのはおやめ。。 お願いだから もう 何も言わないでおくれ・・」
幸子は黙って聴いていたが、片方の目をしばたかせながら、ずっと泣いていた。
「パァパ・・ ワダシ ダカラ 『イッダノ』 アノドキヘ 『イッダノ』 」
「ん・・・?? 行った、、と言ったのか? どこへ。。行ったんだ? 」
「あの時、、っていつのことだい? 」
「パァパ・・ パァパド ママガ イジバン ジアワセダッタ アノドキ アノバジョヘ・・・」
私は多分 顔面が蒼白になっていただろう。 あの眩暈が また 襲ってきた。
「あのしあわせだったとき・・ あのばしょ・・へ・・ だって???・・・・・」
「ウン・・ パァパ ・・・ビタンデショ?? モウズット バエニ アド ジャジン ヲ・・」
「バダシ・・ ドギドギ ドベダノ ・・ ゴゴドダゲガ ドベダノ 」
「ゾレハ バエニ ジンダ ドギガラ ・・・」
「デンブ バダシガ ワドゥイノ・・ 」 「パァパ・・ハ バルク ナイノ 」
「パァパ ゴベンダザイ・・ ゴベンダザイ・・」
この時、 「時の輪」が 繋がった。
幸子は 「心が飛べた」と言った。 「前に死んだ時から・・」 と言ったのだ。
めまぐるしく私の思考は 回転していた。 だが、どこに落ち着いたらいいのか判らなかった。
「、、、そんなバカなことが・・ 」 「あの写真の ・・ あの女性は・・
あれは 幸子なのか? 」
その時、私の頭の中で、二人の幸子が一つに重なった。