NIGHT PHANTASM
02.Jesus Is Calling(1/4)
「姉さん、ここに底なしの穴があったら、私をその穴から救ってくれる?」
「ただの池だよ。深くても腰くらいだろ?」
「答えてよ」
「ああ、その時は手を伸ばすよ。届かなかったら飛び込む。一緒に穴の底へ沈んでいっても、かまわない」
先ほど脱いだ服を隣に積み、下着姿でルイーゼは山中の池にひざから下だけを浸からせていた。
対するアンナは、一糸まとわぬ、つまりは裸体を恥ずかしがることもなく池の水に下腹部までを沈ませている。真冬だが、一仕事終えた二人にはその刺すような
冷たさがいい刺激になる。がたがた震え出すような弱い体は、とうの昔に捨て去っていた。いや、死んでしまったといっても間違いではないかもしれない。
吸血鬼であるティエに長い間仕えてきた二人は、人間であって人間ではない。痛覚も、温度を感じ取る機能も、脳が無駄だと判断しある程度を切り捨てられている。
このまま、何も感じなくなるのだろうか。そう思った時もあったが、進んでしまえば思うよりずっと受け入れやすい現実だった。
言葉通り無痛になった時にはまた違う感想が出るのかもしれないが、それは今ではない。
「……」
水面を見る。
二人はこの大きな水溜りを池と認識しているが、この場所の水は停滞していない。いつの時も澄んだ水をたたえていられるのは、人の手が入っていないことと
もう一つ、川という形で水が循環していることに理由がある。そうした自然の大きなうねりは、二人に何を要求することもない。強制することもなく、ただあるがままに悠久に全てをゆだねている。
ルイーゼが手で水面を跳ねさせると、冷たい水がぱしゃりと音を立てて飛んだ。
洗い流した血とともに、罪をもそそぎ、受け入れてくれるのだろうか、この小さな世界は。無垢に微笑むことを、許してくれるのだろうか。
まだ夜は深い。
妹が水をもて遊び、何も知らない子どものように笑っている以外、ここに喧騒を呼ぶものは何もなかった。
「……帰れや、我が家に、帰れやと……」
「姉さん?」
「主は今、呼び給う……」
わずかに強弱と緩急がついているが、それは歌ではなく呟きだった。アンナが不思議そうに見つめる先で、ルイーゼはうつろに水面を見つめている。
水面に映る月。波に歪むその輪郭が、彼女には別のものに見えているのだろう。
壊れたオルゴールのように、自然と静寂という観客に囲まれルイーゼの声は途切れることなく続いた。
「我に来よ」と 主は今 優しく呼び給う
などて愛の光を 避けて彷徨う
「帰れや 我が家に 帰れや」と 主は今呼び給う
疲れ果てし旅人 重荷を下ろして
来たり憩え 我が主の 愛の御許に
「帰れや 我が家に 帰れや」と 主は今呼び給う
迷う子らの帰るを 主は今待ち給う
罪も咎もあるまま 来たり平伏せ
「帰れや 我が家に 帰れや」と 主は今呼び給う
「……」
「近所のおばさんが、これは賛美歌、神様をたたえる歌なんだよと、教えてくれた」
「……思い出したの?」
アンナの声が、硬くなった。二人に、過去の記憶はない。だが、薬を飲んで毎晩見る夢の中で、あるいはまどろむ白昼夢のその奥に、時折懐かしさをともなう光景が浮かぶのだ。最初はただの夢だと気にとめていなかったが、胸をしめつけるような懐かしさはしこりとなって心の深層に残っていた。
そして、いつしか考えを改める。
なくした過去が、二人を呼んでいるのだと。思い出してくれることを願い、暗い海で残留しながら待っている記憶があるのだと。
「あの時、おばさんは私をルイーゼと呼んだ。私達は小さい頃からそっくりだったから、気付かなかったんだろうね」
「……いたずら」
「うん?」
「覚えてる。あの日、ほんのいたずらのつもりで、私はアンナの服を着て、アンナの髪型を真似て、アンナとして皆の前に現れたの」
水を割るようにして、水音とともにアンナが岸へと近づきながら言う。目にはしっかりと、なくした過去の熱が宿っていた。
そして、ルイーゼと並ぶようにして座る。月光に照らされる白い裸体は、中性的でどこか背徳感をただよわせていた。垂れた水滴が、丸みを帯び背中をつたう。
「そうだわ。聖書を見たの。ハンターが持っていて、それを見て、何か違和感を感じていたの。あれは、きっとこの記憶のことを……」
忘却が訴えていた、記憶。
過去を知りたくてしかたがないわけではない。二人は亡霊として、亡者として生きている。人間だった頃の記憶など、あっても邪魔になるだけだ。
それでも、その扉はノックされ続けていた。何かを、誰かを呼ぶように。
作品名:NIGHT PHANTASM 作家名:桜沢 小鈴