「お話(仮)」
第1話 『アカイケモノ』
ひとりの男が、とある小さな酒場に入っていった。
分厚いガラス窓の向こうでは、昼下がりの太陽が揺れている。
「あぁ、クリス君……とかいったね」
気さくなマスターに促され、クリスと呼ばれた旅人風の若者はカウンターの高い椅子に腰かけた。すると、何も言わずマスターは彼の前に酒を出す。
「もうずいぶんとこの町にいるね。二週間になるだろう?」
「十五日よ、マスター」
壁のカレンダーを眺めながら、クリスは視線を上げた。
肩上まで伸びたキャメルの髪と、仄かにブルー味を帯びた薄茶の眼。特別端正な顔立ちという事もないが、その独特な口調と人懐っこい性格のため、いつしか彼は馴染み客の一人になっていた。
「ところで、この間言っていた“探し物”とやらは見つかったのかい?」
「もぅ、見つかってたら昼間っから飲んでないわよ」
マスターの問いに肩をすくめてクリスは笑う。
「そろそろ他を当たろうかしら。せっかく馴染んできた所だけど、アタシ今夜にでもここを発つわ」
「森を抜ける気かい? 残念だが、それはやめておいた方がいい」
首をかしげるクリスを横目にマスターは続ける。
「近頃はあの森も妙な噂が多くてね。確か、昨夜も若い男が殺されたって話を人づてに聞いたよ」
「あら。亡霊でも出るって言うの?」
その時。クリスはどこかで視線を感じたような気がした。
さり気ない仕草を装って店内を見渡す。そんな彼の目に、店の片隅にたたずむ一人の客の背中が映った。黒いマントのフードを目深にかぶっており顔こそ分からないが、その者は他の客とは異なる謎めいた雰囲気を放っていた。
「ねぇマスター。あの子、見ない顔ね」
「今日はじめて来たお客さんだよ。さっき少しだけ話をしたんだが、まわりを気にした様子で……まるで何かを探しているような感じだったね」
「そう」
その後、片目でマスターに合図を送ると、クリスはカウンターを離れ店の奥へと足を運ぶ。
「……何の用だ」
気配を察し、クリスに背を向けたまま、その者は言った。
それは、まだ若い女の声だった。
「あら、女の子だったのね?」
「近寄るな」
歩み寄ろうと距離を詰めるクリスを拒み、彼女は片手で宙を払った。
と、弾みでフードが外れ、その下から紅い珠の耳飾りが覗く。
「……」
クリスは息を呑んだ。
白銀色の髪を高い位置で束ねた色白の少女。年の頃は、おそらく二十歳前だろう。
「……可愛いわね」
「……」
「初めまして。アタシはクリストファー。クリスでいいわ」
にっこり笑って彼女の正面に座り、クリスは一方的に会話を続けた。
「森の治安には困ったものよね。実はアタシ、とある“探し物”をしているの」
「……探し、物?」
相手の反応を探りながら、じらすように黙り込むクリス。すると、そんな二人の間からマスターの手が伸び、そっとテーブルにグラスを置いた。
深い赤色をしたカクテル。それは先程クリスがカウンターを離れる際にオーダーしたものだった。不思議そうにそれを見つめる少女の顔がグラスごしにゆらめく。
静寂の中、彼女の耳元でマスターが酒の名を囁いた。
「“紅い獣”でございます」
「!」
刹那、少女の表情が変わった。
「そう。それがアタシの“探し物”。でも、なかなか手掛かりがなくって……」
しかし、クリスがそう言い終わらないうちに、女は席を立つと、足早に店の出口へ歩き出した。
「帰っちゃうの?」
名残惜しげに声をかけるクリス。すると彼女は扉の前で足を止め、フードを直しながら呟く。
「私に帰る場所などない」
そのまま彼女は午後の町へと消えていった。
「フラれたね」
再び静けさが戻った店内でマスターが笑う。
「……マスター。やっぱり今日のぶんもツケといてくれるかしら?」
少女の残したドリンクを一気に飲み干し、席を立つクリス。
「あ、それと」
去り際に振り返ると、思い出したようにカウンターの奥の壁を指差して彼は言った。
「そのカレンダー、去年のよ」
――共和歴267年。
穏やかな春の訪れと共に、ひとつの物語が幕を開ける。