写真 part3
長い長い一夜が明けた。 結局、司法解剖は必要なしということで、おれたちが暮らしていた響子のアパートの二間の狭い部屋に、遺体を引き取り、一夜を過ごした後、響子の遺体は、当然のように、朝早く埼玉の実家へと搬送されていった。 そこで通夜・葬儀を執り行い、荼毘に付すという。
そこはおれが行ってはならない場所だった。 おれは『車』の背中に向かって深々と頭を下げ、響子との永遠の別れを告げた。
おれは おれは その日の午後1時の「予定通り」に面接試験に臨んだ。 響子があれほど応援をしてくれ、採用を望んでくれていた会社の内定通知が来たのは、その2週間後だった。
バブルの時代はおれみたいなハンパな学生でも、潜り込むことは、そう難しいことではなく、その後、「それが弾けた」あとに入社してくる連中とはレベルも違っていたし、その分、さげすむような社内の視線も味わっていくことになったのだが。。
ともかくおれは「もう恋はしない」と決めていた。 懸命に仕事だけに打ち込んだ。
同僚の遊びの誘いもほとんど応じたことはなかったと思う。 響子のことを忘れたいのか、忘れたくないのかもよく分からないまま、あっという間に年月が過ぎていった。 おれはもう30歳になろうとしていた。 寂しかった。 たった一度の恋も、 そして人を愛するということを恐れる自分に哀れを感じ続けてきたことも。 たった一人の親父を残して、死のうにも死ねなかった。
自暴自棄になりかけて、酒にも溺れた。 生活は荒れていった。 何一つ、心から笑ったという記憶もない。
やさしい女の愛情や温みさえ、知らないままの十年だった。 そう 響子以外には。。
さすがに見かねた親戚筋が、「ともかく一度会うだけでも・」と勧めてくれたお見合いは夏の終りのころだった。
「あのね 年はあんたより五つ若い方なのよ でも一度結婚をしてらして、元のご主人とは離婚なすったのだけど、、 それでお子さんは、女の子が一人いらっしゃるの。 きれいな方だし、娘さんは4歳で、それは可愛いお子さんなの。 『こんな私でも宜しければ・・』と仰ってて、あなたの昔のことも話はしてあるから、 ね? ともかく今度の日曜日には出てらっしゃいな」ということで、おれは都心に近い割烹料亭に向かうことになった。
このまま人生が終わるのは辛いことだ。 そして人生が「始まらない」のは、もっと辛いことだった。
割烹の二階の部屋に入ると、髪をひっつめて丸めたヘアスタイルの、スーツ姿の美しい聡明な顔だちをした女性と、
そして可愛らしく微笑んで上目使いにおれのほうを見ている女の子がそこに座って待っていた。
おれはその瞬間で心を決めたといってもいい。
利口そうで、まるで天使のような 、そう、、この世の穢れなどとはこの先もまったく無縁であるかのような、「サチコちゃん」というその女の子を見た途端に そう思ったのだった。
「こんにちわ・・」と その子は言った。 婦人はそっとお辞儀をして、あとは目を伏したままだった。
「こんにちは」 私も微笑んでそう答える。 背の高い扇風機がゆっくりと顔を振っていた。
遅い蝉の少し弱い鳴き声。 打ち水もさやかな石畳と桧皮葺の格子戸をくぐらせる、さも高級なその割烹の庭は、暑かった夏が終わろうとしており、街の喧騒も聞えてこない静かな午後だった。
そうと決まれば、とばかり、親戚の叔母の差配で、秋の終りには、結婚式と相成った。
向こうは再婚だが、こちらは初めてのお式だ、というので、博多の実家の年老いた父親に成り代り、何から何まで、叔母の手筈はすばやく、あっという間に、「当日」がやってきた。
会社関係、父親方の兄弟親戚や同級、悪友どもが集まり、それは賑やかな宴となった。 参列者が揃ったら、まず集合写真の撮影だった。
妻になった美幸は あでやかだった。 改めて、「こんなに美しいひとだったんだな」と呑気に感心しながら並び、 娘のサチコはあっさり二人の間に、と大方が賛成したのだが、どういうものか、サチコは
「さっちゃん いや!」と言い出したのだ。 「さっちゃんはいいの。 ここにいる!」と、言い張り、どんなになだめすかしても、頑として一緒に写ろうとはしないのだ。
結局、サチコはカメラさんの横で、ニコニコしながら全員を前にしたままそこに立っており、そうこうしてる間に撮影は終わってしまった。
返す返すもそれは惜しいことで、そののちもそれがしばしば家族の話題となった。
前にも言ったように、妻は美しく優しい女だったし、家事もそつなくこなしてくれたし、サチコは私に実によくなついてくれて、お風呂はいつも私と一緒に入るのが習慣になっていった。
やがて小学校に上がり、日曜参観にはどうしてもパパに来て欲しいとだだをこね、仕方なく疲れの溜まった朝でも普通に起き、よく学校に出かけたものだった。
幸子はショートカットのヘアスタイルがよく似合った。 セーラー服姿は目映く、高校生の時分には、すっかり大人びた美しく愛らしい娘になっていった。
私たち夫婦は、子供は出来なかったし、そのつもりもなかった。
妻、美幸はどちらかといえば、そういうことに淡白な女でもあって、夜の営みがだんだん遠ざかっていっても、不満を言うでもなかった。
当初はそれでも、私の下で声を秘そめながらも、激しいセックスを求めたこともあったが、どこか、、
そうどこかにウソがあったように感じていたのは、私の過去、つまり響子とどうしても較べてしまう私自身のせいかも知れない。
それは、男というものの性(さが)であるかもしれないし、それをいうなら美幸の方も同様かもしれない。
ある時、会社のやり手の女友達に、そんな話をしたら、
「うーん・・なんとも言えないわね。 でも女には『過去』はないのよ。 それともあなたがよっぽど下手くそだったりすれば別だけど? あははは・・」と笑われてしまった。
そんな美幸は幸子が成人式を終えたあたりのころから、外出や旅行を楽しむような女になっていった。
私は仕事で忙しかった。 会社で部長にもなれば、ガムシャラに働く代わりに、失敗の許されない、張り詰めた接待や、部下におしきせに出来ない任務も増えて、あまり美幸をかまってやれない日々のほうが多くなっていた。
それでも美幸は美しさや衰えを失わず見せず、密かに私の自慢の女房であり続けた。 ゴルフ接待にも同伴するようになり、みるみる上達していく妻には実際 私も驚くほどだった。 同僚たちは、「今度も奥さん、一緒にくるんだろ?」とあからさまなスケベ顔で言うのだった。
そしてその頃からか、それらとは反対に美幸と娘・幸子の間の空気に微妙な変化を感じてはいたのだ。
「・・娘も一人前になれば、そういうものなんだろうな・・」くらいのつもりでいたのだが、 ある日 疲れて帰宅すると、
居間の方から、母子の言い争いの声がするのを聞いてしまった。
そこはおれが行ってはならない場所だった。 おれは『車』の背中に向かって深々と頭を下げ、響子との永遠の別れを告げた。
おれは おれは その日の午後1時の「予定通り」に面接試験に臨んだ。 響子があれほど応援をしてくれ、採用を望んでくれていた会社の内定通知が来たのは、その2週間後だった。
バブルの時代はおれみたいなハンパな学生でも、潜り込むことは、そう難しいことではなく、その後、「それが弾けた」あとに入社してくる連中とはレベルも違っていたし、その分、さげすむような社内の視線も味わっていくことになったのだが。。
ともかくおれは「もう恋はしない」と決めていた。 懸命に仕事だけに打ち込んだ。
同僚の遊びの誘いもほとんど応じたことはなかったと思う。 響子のことを忘れたいのか、忘れたくないのかもよく分からないまま、あっという間に年月が過ぎていった。 おれはもう30歳になろうとしていた。 寂しかった。 たった一度の恋も、 そして人を愛するということを恐れる自分に哀れを感じ続けてきたことも。 たった一人の親父を残して、死のうにも死ねなかった。
自暴自棄になりかけて、酒にも溺れた。 生活は荒れていった。 何一つ、心から笑ったという記憶もない。
やさしい女の愛情や温みさえ、知らないままの十年だった。 そう 響子以外には。。
さすがに見かねた親戚筋が、「ともかく一度会うだけでも・」と勧めてくれたお見合いは夏の終りのころだった。
「あのね 年はあんたより五つ若い方なのよ でも一度結婚をしてらして、元のご主人とは離婚なすったのだけど、、 それでお子さんは、女の子が一人いらっしゃるの。 きれいな方だし、娘さんは4歳で、それは可愛いお子さんなの。 『こんな私でも宜しければ・・』と仰ってて、あなたの昔のことも話はしてあるから、 ね? ともかく今度の日曜日には出てらっしゃいな」ということで、おれは都心に近い割烹料亭に向かうことになった。
このまま人生が終わるのは辛いことだ。 そして人生が「始まらない」のは、もっと辛いことだった。
割烹の二階の部屋に入ると、髪をひっつめて丸めたヘアスタイルの、スーツ姿の美しい聡明な顔だちをした女性と、
そして可愛らしく微笑んで上目使いにおれのほうを見ている女の子がそこに座って待っていた。
おれはその瞬間で心を決めたといってもいい。
利口そうで、まるで天使のような 、そう、、この世の穢れなどとはこの先もまったく無縁であるかのような、「サチコちゃん」というその女の子を見た途端に そう思ったのだった。
「こんにちわ・・」と その子は言った。 婦人はそっとお辞儀をして、あとは目を伏したままだった。
「こんにちは」 私も微笑んでそう答える。 背の高い扇風機がゆっくりと顔を振っていた。
遅い蝉の少し弱い鳴き声。 打ち水もさやかな石畳と桧皮葺の格子戸をくぐらせる、さも高級なその割烹の庭は、暑かった夏が終わろうとしており、街の喧騒も聞えてこない静かな午後だった。
そうと決まれば、とばかり、親戚の叔母の差配で、秋の終りには、結婚式と相成った。
向こうは再婚だが、こちらは初めてのお式だ、というので、博多の実家の年老いた父親に成り代り、何から何まで、叔母の手筈はすばやく、あっという間に、「当日」がやってきた。
会社関係、父親方の兄弟親戚や同級、悪友どもが集まり、それは賑やかな宴となった。 参列者が揃ったら、まず集合写真の撮影だった。
妻になった美幸は あでやかだった。 改めて、「こんなに美しいひとだったんだな」と呑気に感心しながら並び、 娘のサチコはあっさり二人の間に、と大方が賛成したのだが、どういうものか、サチコは
「さっちゃん いや!」と言い出したのだ。 「さっちゃんはいいの。 ここにいる!」と、言い張り、どんなになだめすかしても、頑として一緒に写ろうとはしないのだ。
結局、サチコはカメラさんの横で、ニコニコしながら全員を前にしたままそこに立っており、そうこうしてる間に撮影は終わってしまった。
返す返すもそれは惜しいことで、そののちもそれがしばしば家族の話題となった。
前にも言ったように、妻は美しく優しい女だったし、家事もそつなくこなしてくれたし、サチコは私に実によくなついてくれて、お風呂はいつも私と一緒に入るのが習慣になっていった。
やがて小学校に上がり、日曜参観にはどうしてもパパに来て欲しいとだだをこね、仕方なく疲れの溜まった朝でも普通に起き、よく学校に出かけたものだった。
幸子はショートカットのヘアスタイルがよく似合った。 セーラー服姿は目映く、高校生の時分には、すっかり大人びた美しく愛らしい娘になっていった。
私たち夫婦は、子供は出来なかったし、そのつもりもなかった。
妻、美幸はどちらかといえば、そういうことに淡白な女でもあって、夜の営みがだんだん遠ざかっていっても、不満を言うでもなかった。
当初はそれでも、私の下で声を秘そめながらも、激しいセックスを求めたこともあったが、どこか、、
そうどこかにウソがあったように感じていたのは、私の過去、つまり響子とどうしても較べてしまう私自身のせいかも知れない。
それは、男というものの性(さが)であるかもしれないし、それをいうなら美幸の方も同様かもしれない。
ある時、会社のやり手の女友達に、そんな話をしたら、
「うーん・・なんとも言えないわね。 でも女には『過去』はないのよ。 それともあなたがよっぽど下手くそだったりすれば別だけど? あははは・・」と笑われてしまった。
そんな美幸は幸子が成人式を終えたあたりのころから、外出や旅行を楽しむような女になっていった。
私は仕事で忙しかった。 会社で部長にもなれば、ガムシャラに働く代わりに、失敗の許されない、張り詰めた接待や、部下におしきせに出来ない任務も増えて、あまり美幸をかまってやれない日々のほうが多くなっていた。
それでも美幸は美しさや衰えを失わず見せず、密かに私の自慢の女房であり続けた。 ゴルフ接待にも同伴するようになり、みるみる上達していく妻には実際 私も驚くほどだった。 同僚たちは、「今度も奥さん、一緒にくるんだろ?」とあからさまなスケベ顔で言うのだった。
そしてその頃からか、それらとは反対に美幸と娘・幸子の間の空気に微妙な変化を感じてはいたのだ。
「・・娘も一人前になれば、そういうものなんだろうな・・」くらいのつもりでいたのだが、 ある日 疲れて帰宅すると、
居間の方から、母子の言い争いの声がするのを聞いてしまった。