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勧善犯罪

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 キョウコが搬送された病院では、老境に差し掛かった、神経質そうな院長が治療にあたった。キョウコのように、警察の手に余る犯人はここに送られてくる。秘密を守ってさえいれば、警察から相応の謝礼も貰えた。彼からすれば割の良い患者というわけだった。

「キョウコ君、君は病気なんだ」
「そうなのですか。でも先生、私は正常です。悪人が一人いれば、何人もの人が苦しみます。その悪人が政治家なら、もっと多くの人が苦しむことになります。ならば、原因を排除するしか無いではありませんか」
「君の考えはとても危険だ。人が人を殺すことの正当化に、勧善懲悪が使われてはならないのだよ」
「善き行いは、全ての道理を超越します。悪人を殺すことが許されないなら、死刑だって許されない筈でしょう」

 精神科医はそれ以上は答えなかった。もとより、その議論は精神科の領分ではない。彼女への処置は通り一遍のものに終始したが、キョウコはそれに素直に従った。他の患者のように暴れだすこともなかったし、たまに本を読みたいと訴える以外は、なんの問題も起こさない。実に扱いやすい患者であった。
 やがて月日は流れ、彼女の”病状”は快方に向かっていた。善悪の議論を医師の前で口にすることもなくなり、家族や友人との面会も許されるほどになった。隔離病棟から一般病棟に移されてからは、むしろ看護婦の手伝いを志願する程である。実際、問題も起こさず、礼儀正しい。看護師の中でも、評判の患者だった。
 あの政治家の死は結局、事故ということで決着し、人々は情報の洪水に押し流された事件など、最早覚えてもいない。報告を受けた警察側からも調査官が寄越され、何度かの面談の後、問題がないという判断を下されたのだった。
 しかし、精神科医は漠然とした不安を感じていた。最近、汚職政治家や、詐欺まがいの商売をしていた実業家、新興宗教団体の教祖など、世界の裏で暗躍していると目された人物が相次いで殺害され、連日のようにワイドショーを賑わせているのだ。まるでかつてのキョウコの病状が広がったかのように。
 そこまで考えて、精神科医は頭を振った。そんな筈はないのである。彼女はこの病院から、一歩も外に出ては居ない。手紙は全て目が通されている。暗号のようなものが仕込まれている様子もなかった。彼女が仲間を作っていたという話も聞いていない。結局、取り越し苦労でしか無いのだ。
 眼鏡を外し、目頭を揉みながら、精神科医はため息を一つついた。流石に高齢には勝てないし、最近疲れているのかもしれない。丁度そこに、熱いコーヒーを持った看護婦が入ってきた。

「先生、コーヒーをお持ちしました」
「あぁ、ありがとう。今日はいい天気だな」

何気なくつぶやき、医師はコーヒーを一口すする。窓の外には抜けるように青い空が広がっている。温かい飲み物が染み渡るにつれ、先ほどの不安がゆっくりと―――

「がはッ!?」

胃に焼け付くような痛みが広がり、椅子から転げ落ちる。嘔吐感がこみ上げ、慌てて口元を押さえた手は、べっとりと赤い血に塗れている。

「き、君、何を……何を飲ませたんだ!」
「先生、先生は正常な思考の持ち主を、警察と結託してこの施設に監禁して居られましたよね。それは悪いことです。先生、悪人は倒されねばならないのです」

 どこか熱に浮かされたような熱さでそう語る看護婦を呆然と見上げながら、院長は廊下から響く整然とした足音と、それを先導する声を聞き、漸く状況を理解した。キョウコは外に出る必要など無かったのだ。そして、彼女はまさに”正常”だった。表向きの従順を装い、この病院のスタッフ、あるいは患者にまで、自分の正義をといて回ったのだろう。彼女の誠実さと実直さは、聞くものに訴えかけるものがある。
 そしてもう一つ、院長は恐るべき事実に思い当たった。彼女は恐らく、警察に捕まってからここに収容される過程で、集団の結託による力を思い知った。一人の力には限界があり、それは上回る力によって圧殺されてしまう事を、身を持って理解したのだ。キョウコは今や、完璧に善良な一市民から、完璧に善良な先導者へと、その危険度を増している……。
 目を見開いたまま、暫くもがいていた老人は、やがて事切れた。それを確認してから、看護婦は院内の全ての扉を開放して回る。その様子を、キョウコはあの日と変わらない微笑をたたえたまま眺めていた。同じ志をもつ友人たちを引き連れ、外に続く扉を開くと、久しぶりの解放された空気が彼女を包む。

「あぁ、世界はなんて美しいのでしょう」

 キョウコの言葉に、彼女に従う人々は、熱っぽい目で頷きあった。今日は記念すべき日になるだろう。世の悪人が一掃されるまで続く、正義の戦いの幕開けの日になるのだから。
作品名:勧善犯罪 作家名:酒虎