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文殊(もんじゅ)
文殊(もんじゅ)
novelistID. 635
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いりがみ

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 すぐさま離れたい心もあった。しかし、たかが魚一匹、されど魚一匹の恩。それをイヌガミとなっても忘れられずにいる。犬の時の忠誠さなど、すぐさま失われてもよさそうなものであった。しかし、血肉にしみついたようなその性は失い難いものらしい。異形になってなお、恩というものに縛られるような心地がしていた。
(噛み殺してどこか遠くへ行ってしまおうか)
 そんなことを数度思ったが、結局そうすることはなかった。そして、いつまでも、女の気の済むまでならいてやろうと思った。魚一匹の恩があるからだと、言い聞かせることにした。それが本心かどうかは、さだかでない。
 ただ、女の傍から気の済む前に消えてしまえば、どうなってしまうのか。そこが考えの及ばぬところであったからかもしれない。
 イヌガミにはわからないことである。金の価値も、幸せを羨むことも、羨んでその幸せの最中にいる者を貶めたい気持ちも、なにもかもがわからないものであった。理解しがたい、という方が近いかもしれない。
 女はそんなイヌガミの理解しがたいものにまみれて生きているようであった。いつも金やなにがしかの価値のあるらしいものをほしがり、それを持っているものを妬んだ。他人が幸せでいることが許せぬようで、けがらわしいものを見るようにしながら、どこか寂しげでもあった。そして幸せな者たちを貶める際に「幸せなぞ、そんなのはすぐこうして壊れるまやかしなのだよ」と言う。ただ、その「幸せなぞ所詮まやかし」という言葉を他人が口にするのをひどく嫌った。

 理解の困難なものにまみれて生きている女のことは、なぜかイヌガミでも自然と理解できた。女はさびしいのだろうと、思った。価値のあるものも人も幸せもなにもかもが彼女のまわりにはない。失われることすらないその現実を受け入れることだけが、傍にいつもある。だからこそ、他人に幸せを語られたくなかったのだろう。幸せを語れるのはたとえまやかしの幸せだとしてもそれを一度でも感じたことがある者だけである。幸せの香りを、満たされる感覚を、手触りを知らぬ女は、幸せが語れなかった。
 イヌガミはそれを哀れとは思わない。「哀れである」と言われたところで、女は喜ぶことなどしないと思ったからである。異形のおのれが女に「おまえは、幸せを語れずあわれである」などと口にすれば、今度はなにをされるかおそろしくてしかたがない。
(しかし、おれだけではないか)
 女の傍にいるのは、イヌガミであるおのれだけである。そのことだけが重くのしかかるようで、イヌガミはまたするりと宙で体を回転させた。触れる空気は涼やかな筈が、それすら重くてなんとはなしに不快であった。
 女のすることも求めるものも、なにもわからないままである。ただ、おのれが傍に居続けることさえできるなら、それでも良いのかもしれないとイヌガミはどこかで思い始めた。それが正しいことかは、女が決めればいい。
(おれが決めても、意味などない)
 そうだろう。問いかけようと思ったが、傍らで眠りについている女にはそうすることすらできなかった。女もかつてのおのれと同じように、否それ以上に不便な体である。飢えも痛みも欲も溢れんばかりに存在する。そして、寂しさもわびしさも辛さも切なさも、ある。
(人とは、めんどうなものばかり背負っているのだな)
 言えば女はどんな顔をするか。わかるようで、わからないそれを知りたいとは思わない。イヌガミだからであろうか。犬であったとしても、同じように思ったのではないだろうか。
「ほら見ろ、お前たちの願った幸せなど、すべて、すべてまやかしだ」
 笑いながら口にする女の顔を赤く照らすのは、燃え盛る炎であった。ただ女の表情がどこか泣きだしそうで、イヌガミは(難儀なことよ)と熱さを紛らわせるために体をまたすいと動かすだけで何も口にはしなかった。
作品名:いりがみ 作家名:文殊(もんじゅ)