小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
文殊(もんじゅ)
文殊(もんじゅ)
novelistID. 635
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

いりがみ

INDEX|1ページ/2ページ|

次のページ
 
 犬の切なく吠えるのを見ながら、女は何をするわけでもなく時を過ごしていた。目の前には腹を空かせて鳴くそれ。ただ、その姿は首から上しか見えていない。幾度も地上に出ようとしては体を埋められ、それでもなお地に足をつけようとする姿はあわれである。
 犬がまた吠える。その鳴き声は少しばかり耳ざわりで、女は顔をしかめた。鳥獣の鳴く声というのは、どうにも耳慣れず、不快である。
「静かにおし」
 一声かけるも、飢えと居心地の悪さで我慢の限界をとっくに越えている犬にはそんな声は届かない。唸り、今にも大きく吠えだしそうな姿を見て、女は静かな心のまま「そんな力があるなら、まだ苦しむしかないね」と口にした。なんでもないことのように。

 とある女が、紛いもののそれを高値で売ったことを聞いたのが、始まりであった。適当なものを適当な口上でもってそれらしく売ったそうである。売る者も売る者なら、買う者も買う者である。莫迦らしいと思った。ただ、その金がいかほどだったかだけは耳に残って離れずにいた。
 それだけあるなら、さぞよい暮らしぶりになっているのだろう。
 考えれば考えるほどに、紛いものを売り払った女が許せず。ついに、自分が本物を見せてその女の暮らしをどうにかしてやろうと思った。力もさしてないというのに、強欲で卑怯なやつだ。そいつの紛いもので得た幸せなぞ、すぐさま壊せるのだと。幸せなぞ、どこにもありはしないのだと思い知らせてやろう。
(幸せなどないこと、見せてやろう)
 先にある女や人々の苦しむさまを思って、女の口元は自然と歪んだ。

 日が沈みかけたころ、女はまた犬の前に姿をあらわした。飢えが極限を越しつつある犬の目は虚ろで、吠える気力ももうないようである。臭うのか、虫が周囲を飛び回っていた。目や耳のまわりにつくそれを、厭う素振りすら見せることができずにいる。傍らでは、先ほどおこした火が揺らめいていた。
 頃合いかも知れぬと思いながら、女はどこからか持ちだした桶の中を見つめた。そして、冷たい水の中を悠然と泳ぐその影を手で掴む。水のなくなった空中で悶え苦しみながら、その生をゆっくりと終えていく魚を、女は地べたに投げた。
 すると、犬のふたつの目がそれを捉えた。地べたの上で跳ねる生。
 食い物である。肉ではないが、魚がある。生ではあるが、そんなことはどうだっていい。魚が、魚がそこにある。今まさに水のない場所で、ひとつの生を終えようとしている。自分の目の前で。ただ、この体さえ動くなら。動いて目の前のあれにしゃぶりついて、骨すら噛み砕いて飲みこめるならどんなによいだろう。
 犬は力の限り吠えた。
 食わせろ、食わせろ。おれに食わせろ。その魚は、おまえ、おれのために置いたのではないのか。お願いだ、どうか食わせてくれ。腹がよじれるように痛い。喉は乾いて血が吹き出そうだ。体の中が熱い。地の中にある手足はもうほとんど使い物にならぬ。頼む、食わせてくれ。食わせねばお前を呪ってやる。
 そんな風にも聞こえる声と吠える姿を、女は変わらず見つめていた。ただ、その目は静かに細められていく。そして、同時に口角も自然とあがる。
(あさましい、姿よ)
 哀れにも思えないほど乱れた姿を、女は鼻をならして嘲笑う。こんなものでも、もうすぐ〈神〉と呼ばれる存在になるのかと思えば、滑稽であった。
「あせるな、今すぐ食わせてやる」
 女はそう言って、犬の傍に歩みよる。片手に光るものを携えて。犬は魚と女の「食わせてやる」という言葉以外に感覚が向かず、それ以外の先のことはわからずにただ悶えていた。

 光が夕日を浴びて、赤く鈍く光った。それは犬の目には映ることなく、後ろから恐ろしいほど簡単に犬の首を埋められた体から解き放った。あがる飛沫。飛びまわっていた虫たちは一度飛散したが、またすぐさま残った体の回りを飛び始める。女はそんな光景には目もくれず、ただ首の行く先を見つめた。
 首は意志だけで動きまわった。地べたを土がつこうと気にもせずに。そして、口から涎を垂らして土を口のまわりにつけ、魚のもとへとたどりついて口に含んだ。咀嚼する音が響く。
 とっくに息絶えている筈だというのに、食い物をただ貪る姿。女は数回ゆっくりと瞬きをすると、燃える火のついた木を土ごと掬うようにして、ようやく餌にありついた幸福感に満ち溢れる犬の首の上へとかけた。
 熱さに悶えることもなく、犬は魚をなおも貪っている。次第に耳が燃え、毛が燃え皮膚を焼く不快な匂いが立ちのぼるころ。犬は最後の食事を終えた。女は一言だけ告げる。
「食わせてやったぞ、礼をしろ」
 犬はその言葉を拒めなかった。女の用意した器へと燃えつきた頃には入れられ、どこか知らぬところで女がおのれの首が入った器に対して何かぶつぶつと口にしているのを聞いた。体も首ももう死んでいるというのに、おかしなことである。犬はそう思った。
 さらにおかしなことが犬の体には起こっていた。切り離された筈の首から下が、いつのまにかふたたびついたようになっている。
 ただ、その体は白に黒のまだらが入った奇妙なものであった。元の毛色とは違う。それだけではなく、随分と細長くなったようである。いつの間にか宙に浮いていた体を回転させながら、犬はそこで「おぉ、おれは犬ではなくなったのだ」と自然と口にした。
 口がきけるというのも、今まではできぬことであった。なにかは知らぬが、犬という存在からは異なるものになってしまったのである。それを悲しんでいる暇もなにも、なかった。ただ、腹が空いた感覚だけがある。

 女は、周囲に人もいないというのに、誰も近づけぬような態度であった。また、女に仕える者はいないというのに、いつも上からものを見るようであった。
 犬でなくなり女から「イリガミ」と呼ばれるようになった状態で、ようやくそんなことを考える。少しばかりではあるが、余裕ができたのであった。
 それはひとえにイリガミに、イヌガミになったからかもしれなかった。
 イヌガミにあの時ほどの飢えはなくなった。いつも腹は空いているが、周りから奪ってくることが簡単にできる。だからもう、飢えによる苦しみはなくなった。
(おれは、好きなだけ食っていられる身になったのか)
 思えばあの時の苦しみが一時のことのように感じられる。女に捕らえられ、苦しみをその身のすべてに叩きこまれて醜い姿を見られたことも、さほど気にならなくなった。
 しかし、あの時の魚一匹で随分と女の望みを叶えることになっている。そのことには、もちろん気づいていた。あの時の犬はそれでよかったが、イヌガミはそれではいけない気分であった。たった魚一匹でなぜ女にいまだ仕えねばならないのかはなはだ疑問に思えてくる。
(もう、この女を捨ておいてもよいのではないか)
 問いかけるも、答えがかえることはない。女は他になにものも従えていないようであった。イヌガミはどこかで、おのれもいずれこの女と離れることができるのではないかと思う。ただ、そのいずれはいつになるかわからない。
作品名:いりがみ 作家名:文殊(もんじゅ)