「哀恋草」 第一章 戦乱の予感
「うむ、久を助けるのじゃ!久はよう心得とるからのう。わがままは慎め。もし落ち延びるようになったら、言葉遣いに心せよ。久は解っておるゆえ、同じように話せ。多くを語るでないぞ。武士の素性がばれるでのう」
勝秀は女二人旅先で素性を聞かれた時の進上を久に言い含め、安堵できそうな農民が居たら世話になるように進言した。世話料となる先祖からの都風の飾り物を持ってゆくようにも勧めた。
今宵も勝秀は久を枕元に呼び寄せ身体を重ねた。成熟している久の身体は激しく反応し、勝秀は二度もその中に自分を放出した。子供が出来る事を敬遠する事などこの時代の女には出来ないことだった。久もそうなっても致し方ないと覚悟も出来ていた。
翌4月軍勢をまとめ維盛を総大将とする義仲追討軍は都から北陸道をめざし出陣した。五月に入り越中まで進軍し11日砺波山で義仲軍の総攻撃に遭い、平氏軍勢はその数10倍にも及んでいたにもかかわらず、戦上手の義仲軍に撃破されてしまった。倶利伽羅峠の戦いに敗れ敗走した平氏軍は続き、篠原の戦いにも敗れ、軍勢はばらばらになって、維盛ら数百の軍勢で辛くも京に逃げ帰ってきた。
義仲の進軍に恐れ平氏一門は幼い安徳天皇を擁護し、西国へと逃げ落ちる決心をした。後白河法皇にも同行を願ったが、危険を感じ比叡山へ隠遁してしまった。こうした騒動の中、都では暴れん坊の木曽兵士たちが乱暴を働くとの噂におびえ、庶民は逃げ出すものが多くなった。山村の光や久の元にもこうした噂は届いていた。
「お久殿、いよいよ旅立ちの用意をせねばならなくなりましたね・・・」
光はそう尋ねた。
「勝秀様をお待ちして遅れをとるといけませぬゆえ、そういたしましょう」
二人は、勝秀に言われた用意をすでに済ませていた。後は頃合をみて、旅立つだけであった。
義仲軍は進軍を続け、比叡山に逃げ隠れた後白河が京へ戻った後、7月28日に入京し、叔父行家と目通りし、平氏追討を命ぜられた。
京の町は義仲軍が統制良く乱暴を働かなかったために逃げ帰っていた庶民たちも舞い戻り、普段どおりに戻りつつあった。数日前に都落ちした平氏一族は播磨国辺りで居を構え様子を伺っていた。光や久の元にも平氏都落ちの知らせが耳に入り、いよいよ旅立ちの時が来たと覚悟を決めていた。
勝秀は維盛に従って播磨にいた。遠く光や久のことを思うと逃げ出したくなる気持ちを懸命にこらえて、従軍していた。夏が過ぎても動きはなく、義仲はどうしたのかといぶかっていた維盛であったが、9月に入っていよいよ義仲軍が播磨に侵攻してきた。このところの飢饉による都の食糧不足は義仲軍の兵士たちを略奪の無法者へと堕落させていった。これに怒りを表わした後白河が、平氏追討をしないと頼朝に義仲追討の宣旨を出すと脅し、兵達を都から追い出すことをけしかけた。
体力も気力も乏しい義仲軍は播磨国で平氏の猛攻に遭い押し返されることとなった。倶利伽羅の戦いとは逆の展開となる皮肉さであった。
10月に入って義仲は頼朝の軍勢が大挙して京に向かっている事を聞き、後白河に真意をただすために休戦し急ぎ帰京した。頼朝は弟義経を下向させていた。京に戻った義仲は、不満を顕わにしたが、後白河の手馴れた振る舞いに翻弄され、再度平氏追討を強く言い渡された。悩んだ挙句義仲は、警護と称して兵を集めていた後白河の住まいを襲い院を捕縛し、五条東洞院の摂政家に幽閉した。
院側の源光長以下100あまりの首を五条川原にさらした見せしめは、京の不評をかい、やがて源氏の本体が入京し、義仲は頼朝のもう一人の弟範頼と義経の率いる軍勢の前に敗退し、寿永3年1月20日に近江粟津で31歳の生涯を閉じた。嫡男義高は頼朝の娘大姫の婿になっていたが、父の死を知り、逃亡し追っ手に打たれて死んだ。
木曽源氏の家系は終えてしまった。
義仲の播磨国への進軍を知り、ひとまず逃亡をせずに静観していた久と光は、平氏追討の猶予が出来た事で難を逃れていた。同じ源氏同士が争い雌雄を決した事は平氏一門にとってある意味静観できた時間でもあった。しかし西国で力を蓄えた平氏一族は清盛の居館があった福原(神戸市)まで引き返し、京に戻る準備を済ませていた。
二月に入って義経と範頼の鎌倉勢は平氏追討の命を受け、本体は範頼が率い、義経は搦め手から背後を突き、さらに一の谷の戦いで奇襲を掛け、平氏軍を敗走させた。
勝秀が警護していた維盛はわずかな家臣と女人たちを引き連れて陣中を逃亡し、小船を調達して瀬戸内海を渡り紀州にたどり着いた。義経の攻撃に奔走し体勢を立て直すことも出来ない平氏一族を叱咤し自ら先頭に立って指揮をしていた勝秀の耳にこの報が入ったのは、すでに出奔した後であった。
「何という事・・・一族結集して戦わねばならぬときに!もやはこれまでじゃ!」総大将宗盛に和睦の案を院側に出すように提案したが、その条件があまりにも一方的であったがために、否決され、一向は船で幼い安徳天皇と祖母二位尼を引きつれ屋島に敗走した。
一の谷での平氏惨敗の報はすぐに京に届いた。和束村の久と光はもはやこれまでと、旅立ちを決意した。出来る限りの兵糧米と乾し餅、粗塩などを竹の皮にくるみ、網かごに詰め光は背負った。久は衣装と先祖伝来の鏡など装飾品を風呂敷に包み背負った。これから苦難の道程を予期させる、雪深い朝であった。
作品名:「哀恋草」 第一章 戦乱の予感 作家名:てっしゅう