「哀恋草」 第一章 戦乱の予感
障子が開いて久は寝巻き姿で勝秀の部屋に入ってきた。髪をとかして薄っすら化粧を施した久の姿は美しく、男性の欲望をかき立てるには十分であった。久と勝秀のこうした場面は初めてではない。逃げ惑っていた久を見つけてここにかくまって以来、続いているのだ。勝秀の愛したもう一人の女性は、久なのだ。二人はここの寝所に居る時だけが許された男と女の時間だった。
「久、今宵は話がある。心してよう聞いてくれ」
「はい、かしこまりました」
久は崩していた足を整え、正座した。勝秀も胡坐を組み背筋を伸ばして久に話しかけた。
「ここに光宛の手紙を記した。わしに万が一のことがあれば渡してくれ。大きな声では言えぬが、福原様(清盛)の命運も長くはない。近頃お体の具合もよろしくない様子じゃし。一門の賢者であられた小松殿(清盛の嫡男、重盛)もなき今、源氏の勢いに破れるは必定。先の富士川での大将維盛どのは小松殿のかけらも見せない無様(維盛は重盛の嫡男、清盛の孫)なありてい・・・」
久はじっと聞いていたが、勝秀の並々ならぬ決意に身震いすら感じた。そして自分が経験した悲しみを再び背負うのかと頭の中で悪夢が甦ってくるのであった。
「わしはのう、恩義のある福原様には命をささげるつもりじゃ。それが武士じゃしのう。その福原様に維盛殿を守れと仰せつかれば、命を投げ出す覚悟じゃ。鎌倉殿(頼朝)が本気で動けば微塵もない有様になるであろう。そのときの事を久に頼みたいと思うておる」
そこまで話して、勝秀は久に近寄り、肩を抱き寄せた。
「お前には苦労をかけるな。こんなわしを慕ってくれて恩義に思うぞ。久がおらねばわしは抜け殻みたいになっておったかも知れぬからのう・・・光の事はよしなに頼むぞえ。話の続きは夜明けでも遅そうない」
勝秀は久を押し倒し寝巻きの帯を解き自らも同じようにして肌を重ねた。温かい久の体はすぐに反応し、勝秀の衰えぬものを受け入れた。
久しぶりの熟睡から目覚めたのは卯の刻を過ぎていた。光が起きだすといけないので、久は朝の支度をし始めていた。勝秀はゆっくりと身支度をして、居間に座っていた。奥の部屋から光が起きてきた。
「父上、おはようござりまする」
きちんと両手をついて挨拶をした。
「うむ、良い子じゃ、よう眠れたかのう?」
「はい、いつもよりたんと眠れたようでござりまする。父上はいかがであられましたか?」
「久しぶりによう寝たわい、ハハハ、光とおると心が休まるからのう」
「本当でござりまするか?光はうれしゅうございます」
久が朝餉を運んできて勝秀と光の前に差し出した。下がろうとする久に「そなたも一緒せぬか」その言葉に嬉しさと不安を感じた久であった。
「お久殿、父上の傍にお座りなされませ。光は父上と母上とご一緒に朝餉を戴いておる気がしますぞえ」
「光・・・そなたは・・・」
勝秀は幼い光の気持ちが身にしみた。母を欲しがっているに違いないとの思いも大きくなるにつれて強く感じてくるであろうことも予想できた。久も光をじっと見つめて感慨深げに指をぎゅっと握っていた。
「光殿、父上様を困らせるようなことを言ってはお叱りを受けまするぞ!日々お父上様からの恩義の事はお話申している事をお忘れではないでしょう・・・」
「久殿、そんなつもりで申し上げたのではござりませぬ。光は父上を尊敬申し上げ・・・感謝申し上げ・・・久殿を強くお慕い申し上げておりまするのに・・・」涙声になってしまった。
勝秀はさっと光を抱き寄せ膝に座らせ、右手で光の涙を拭い、己の目から落ちるしずくを拭おうともせず、真っ直ぐに光を見据えて、
「わしが悪かったのう。許せよ。久の事はわしも慕っておるぞ。光と久はわしの大事な宝物じゃ!三人が離れる事は決してないのじゃ!今日からは久を母と思い慕いそして助けるのじゃ!良いか、光!」
「・・・はい、父上、しかとそのように心得まする。光は幸せ者でござりまするゆえ、もう泣きませぬ。父上の武運を久殿とご一緒にお祈り申し上げておりまする」光の幼心に去来する不安を勝秀は悟った。
朝餉を済まし勝秀はゆっくりとする事もなく、身支度を済ませ光と久に別れを告げて、馬にまたがった。街道まで出てその姿が見えなくなるまで二人は手を振って見送っていた。
数ヶ月ぶりに勝秀の寵愛を受けた久は幸せを噛みしめると同時に昨日の言葉が気になって仕方がなかった。都は関東武者に攻められ炎と化す様子が脳裏をかすめる。自分が逃げ延びてきたあの頃と同じく災禍に光と二人巻き込まれてゆくのだろうかと・・・
光の顔を見た久は、幼いこの子も同じような不安を感じ取っているように伺えた。勝秀の持つ気持ちを推し量る器量を受け継いでいると世話をしていて強く感じてもいた。手を繋いで二人は家に帰ってきた。まるで親子のようにその姿は見えた。
季節は冬に入ってゆく。薪をたくさん作って納屋にしまっておかないといけないので、毎日山道を深く入り潅木を集める仕事が続いた。幼い光も少しばかりではあったが、集めては運ぶ仕事を手伝っていた。
勝秀が次に来たのは一月ほど後になっていた。関東の動きは伝わってこないが雪深い木曽の山奥では頼朝の従兄弟に当たる源義仲(木曽義仲)が上洛への準備を始めていた。
年が明けて養和元年(1181年)木曽義仲は越後から北陸道へ兵を進めていた。翌年養和2年(後に寿永元年)頼朝の名により南信濃に進行した武田軍との衝突を避けるため、義仲は兵を北陸に集め上洛の準備を進めていた。
清盛が病死し平氏一門の長となった次男宗盛は凡庸な人物で指揮能力がなく一門は孤立していた清盛の嫡男重盛のその嫡男維盛(これもり)を総大将として、北陸の義仲追討へと進軍する準備にかかった。勝秀はその武勇と先を読む能力を買われ後白河法皇には厚く支持されていた。近年の平氏の凋落振りには嫌気が差してきていたので、自分の元に来る事を法皇は勧めたが、義理ある福原様(清盛)を裏切れないと、維盛の警護に就く覚悟を決めた。
寿永2年(1183年)3月、北陸進軍を前にこれが最後かもしれないと光と久を勝秀は訪ねた。
光は数え8歳になっていた。久は26歳。改めて光の姿を見て女らしくなってきた事を感じた。生活に疲れた感じもなく久は湯上りの姿に熟した女の色気を放っていた。
光と久を前に勝秀はこれからの事を言い含めた。
「わしは来月北陸道に維盛殿について義仲との戦に向かう。戦に勝てばここも平穏だが、負ければあとを追われて、やがてすぐに京の町も義仲の警護下に入り、この辺りも残党狩りがきつくなって無事にはすまないであろう。これより急ぎ旅支度がすぐにでもできるよう身支度をせい。綺麗な衣装は置いてゆけ。農民と同じ格好で歩くようにしないと疑われるぞ。近年の飢饉でどこへ行っても食い物に困るであろうから、干飯(ほしい)は塩を濃くして日持ちを良くし、たくさん用意しておくようにすると良いぞ。銭より喜ばれるからのう」
久は自分が一族ともども京へ逃れてきた時に味わった、飢えと寒さのことを考えていた。これからの季節寒さは気にしないで済むが、腐りやすい時期の食べものには気遣わなければならなかった。
「父上様、光はどのようにいたせば宜しいのでしょうか?」
作品名:「哀恋草」 第一章 戦乱の予感 作家名:てっしゅう