天通商店街
天通商店街
柔らかく優しい風が目の前を通り過ぎていった。土と草を踏む音が耳に心地よい。それが自分の立てるものだと気付くのにしばらく掛かった。
それに気付いて立ち止まり、周りの景色を見渡す。そこは広い、公園のような場所だった。遊具が並んでおり、花壇に囲まれた池には太陽の光がゆらゆらと反射している。
いつからここに居るのか、どのようにしてここへ来たのか、またここが一体何処であるのかは全く判らずにいた。
何も思い出すことが出来ない。記憶が抜け落ちている、というよりは、頭全体にもやがかかっていて記憶の先へ進むことが出来ない、そんな感覚だった。もしかしたら自分自身のことも思い出せないのではないかと思ったが、その記憶の一部分だけは僅かながら無事だったようだ。ただし、思い出せたのはたった一つ、自分の名前だけであった。
谷川ミツ、それが自分の名前である。それ以外のことは全く判らない。自分の年齢、生まれた、あるいは住んでいた場所、誕生日、そんな基本的なことさえももやの向こう側だった。
視線を落として手のひらを、それから少し翳すようにしながら手を伸ばし、今度は手の甲側を確かめる。しなやかですらりとしている、というものではないが、ほっそりとした女性の腕のようだった。
「あー、あー……」
次に声を発してみた。これといった特徴のあるものではないが、やはり女性のもののようだ。まだ若々しく張りがある。
最後に池の側へと小走りに近寄り、その水面を覗き込んだ。水鏡に映る顔は線の細い、まあまあの美人であった。
それは自分の顔であるにも拘らず、何となく違和感があった。久しぶりにその顔を見た、そんな気がした。