貝殻
easer(容易)といういみだが所謂こと。本来easy,easier,easiestこのことは人間課増健次郎にも謂える。主人公課増は主局計人事部係長であり、この物語はフィクションで或。課増「かます」は本来長い間メインルートに乗らず傍流の人生をおくって来た。そこでかんがえを巡らすと完全個人主義の堅物なので或。なぜ個人主義者がメイン街道で経過をたどらなかったかというと運である。しかも本人が望んでとはいってないと運がまとめるのである。ただこれは運が見方なのか敵なのかの現れなのかは通常人には安易な判断を除き解からないだろうが課増本人にはわかってる。「そこ!」「そことって!!」掛け声がとんだ。
「はっ」急な掛け声に課増ははっとした。とる?何を??さあ?これは指示語か。わかってるよとるよ。堅物?いやそうじゃないと言いたい気持ちを抑え、そこはそう、簡単おちた羽を拾うだけなんだ。そうバドミントンをしてただけなのだ。ただ思考しながら。課増健次郎本人をとらえていた思考はバドミントンの勝ち方ではない。もっとちがう物だ。それはというと簡単。今後の人生の在り方についてだけなのだ。なんだ簡単だ?そうはおもわないね。実に奥行きがありそこそこな安易なまとめでおわる様な代物ではない。ことは重大だ。じつに複雑怪奇。よみが必要だ。しかも慎重に。失敗?許される??思考の段階ならね。だれもこのご時勢個人の思考内部まではよめないからね。実行はとくに注意は要しない。問題なのは結果だ。実行はただの手段。ふん。まあ。いいさ、そこはそこ段階さへ踏みゃあいい。
長い結末?ふん。要しないね。完全だ。結果とその産物の効果はすぐおわる。完結する。ただね。声を大にしていいたいんだ。短絡だと。この完全主義者が。だよ。そう思わない?むづかしいけど。なぜかわたし也に解決しよう。
「結末とは結果の終着点。そう思わない?ちょっと哲学的過ぎたね。ただハッピーエンドだがね。大多数が望んでいるのは。この長い物語りの始まりは結末へと向けて進行。そう。それだけよ。なにも刹那的になる必要はない。だよそことってまただまたおとした羽を。」
「もう昼休みあがりましょ。」筧葉子の声がとんだ。
「うん。そうしよう。」
「社にもどるか。」
「まだ余裕はあるけどね。」
筧は慎重に時間をプレイ時間をみていた様だ。たのしくはない。日々日常はルーティンのおきまり事で思考をめぐらす暇などなく過ごさざるを得ない人生手法を選んだ者にとってはね。
それと、感じながら疑問を残しわたしはまた業務に就いた。どうなんだろ?これって。ルーティンて生活するための手段と割り切ればそれ迄だがどうもちがう。感じわるい。日々実に前進がないんだ。ただ消化。これて意味があるのだろうか?解答を教えて戴きたいぐらいだ。だれかに。どなたかに。そうよねなんかいい解答ないかしら?ただ、だれかこんな貴重な教えを自分も努力して掴んだだろうしただで・・教えてくれるだろうか。いったいどんな報償でいくらの価値が要るんだろうか?それは解答を聴いてみないと払える報償は自分で価値判断したいところだ。価値がないものに高い対価は払いたくなしね。でもなんか不安・・。このままでいいのだろうかと。さてまた上司間抜輔五郎から苦情愚痴が飛んだ。自分としては叱って構ってもらえるうちが花だと自分なりには満足してる責任もそれなりに重いんだし。
「課増さん!この仕事教えてください。おねがいします。」と葉子が接近してきた。最近やけに慣れなれしい。
「うん。おれがやっとくよ。」
ただ、それだけなんだ。おれが解決できることって欲を際限まで延ばすと「おれのできることにないものはない。」なんて感じ悪い思考手段自己中心人間になる。ごめんだー。自分は自分なりに分をわきまえることは押さえてるつもりだ。親の教育もそうだったし。謙虚でありながら謙虚じゃない?というか、
「謙虚な態度は自尊ではなく真の謙虚の布石?つまり謙虚であることにときと場合によっては謙虚であり?ようはつかいわけだ。」
まぁ、いいでしょう。つまらん言葉上のお遊びだ。わたしは男でありながら男尊女卑なんてまっぴら御免だ。時代がそうだから?ちがいます。そういう志向なのです。言い換えれば、こうだ。
「そもそも男子たるもの、機能上、ほんとに上に置かれるものだろうか?しかしいまはすくなくともややであれ、男性上位。これは機能上、優れた男性が歴史の積み重ねでこのシステムをつくりあげた=機能上位なんだろうか?この点は深く考えねば・・。はぁつかれた。答えはどこにあるんだろう。」
仕事って一体なんなんだろう?本質について考えたことがあるひとは歴史上存在するのだろうか?どうしてこういう根本的なことを考えもせずみながやるから・・と躊躇なく先入観で就職するのだろう?それは尤も社会のシステムがそういうつくりになり、嫌が応でもせざるを得ない雰囲気・・。わたし自身は筧葉子を愛してる。とりわけ、個性的ではないが。そこがいい。みんな求めるものてそういうことではないだろうか?なんとなくの安定。奇抜は要らない。じゃないかな?24歳の僕にとって仕事の見栄えはどうでもいい。生活がかかっている。その一点だ。喰わせなきゃいけない。家庭を。でもゆとりは欲しいよね。物を考える。でもスタミナの限界じゃないかな?定職にありながらその道を外れた事象を考えるゆとりを持つことって?たばこ?嫌いだね。ヤニ中が。批難は受けましょう。愛煙家からのね。理解ができない。だめとわかってて始め続けること自体に疑問がわく。ただ、お答えしましょう。自由なんだ。それで商売がなりたつってそういうことじゃない?需要がない以上その商売にひとがからむわけがない。これは商売という概念が発生して以来の基本中の基本だと思っている。しかし、むづかしい。それはなぜかというと商売の媒介物として生み出された?「おかね。」がこれほど主流を人間界で占めるって発案者自身も予測出来たであろうか?否、便利な道具とわりきればいい。あればあるに越したことはないとね。だが、それだけに執着するのもいかがと。なんか薄っぺらいなあとおもわざるを得ない。金を趣味なんてありうるのだろうか。媒介物としてときには消費しときには老後の安定のためにとっておく。そじゃないかな。老後の安定と述べたが、ただの収入が得られるなくなったときのその時点の消費媒介物。完全そうだよね。札を拝んで楽しまれる方もおる様だが。こんなことをひとに話したことはない生意気だって殺されるよ。しかし原点はこうだ。金は媒介物これは疑いようがない。ただ、主流を思考形成の中であらゆる箇所で占める現実の歴史通過のためあまりにも融通が利く利点からとり過ぎてるだけだ。だからこそこう考えればいい。お年玉なんだとね。楽して稼ぐことに越したことはない。しかし、過剰に必要なんだろうか?そこに金という変な気が起きる麻薬がある。優越感。権力欲。独占欲。つまりだれにも過剰にあっても譲りたくない。という変な麻薬性。少々自分の頭の中に説教をぶち込み過ぎたようだ。仕事に戻ろう。
「おっと、もう5時だ。はやくかたづけよう。」とわたし。
「そうね。今日は金曜だもんね。やりのこしがあっちゃまずいは。」と葉子。
「はっ」急な掛け声に課増ははっとした。とる?何を??さあ?これは指示語か。わかってるよとるよ。堅物?いやそうじゃないと言いたい気持ちを抑え、そこはそう、簡単おちた羽を拾うだけなんだ。そうバドミントンをしてただけなのだ。ただ思考しながら。課増健次郎本人をとらえていた思考はバドミントンの勝ち方ではない。もっとちがう物だ。それはというと簡単。今後の人生の在り方についてだけなのだ。なんだ簡単だ?そうはおもわないね。実に奥行きがありそこそこな安易なまとめでおわる様な代物ではない。ことは重大だ。じつに複雑怪奇。よみが必要だ。しかも慎重に。失敗?許される??思考の段階ならね。だれもこのご時勢個人の思考内部まではよめないからね。実行はとくに注意は要しない。問題なのは結果だ。実行はただの手段。ふん。まあ。いいさ、そこはそこ段階さへ踏みゃあいい。
長い結末?ふん。要しないね。完全だ。結果とその産物の効果はすぐおわる。完結する。ただね。声を大にしていいたいんだ。短絡だと。この完全主義者が。だよ。そう思わない?むづかしいけど。なぜかわたし也に解決しよう。
「結末とは結果の終着点。そう思わない?ちょっと哲学的過ぎたね。ただハッピーエンドだがね。大多数が望んでいるのは。この長い物語りの始まりは結末へと向けて進行。そう。それだけよ。なにも刹那的になる必要はない。だよそことってまただまたおとした羽を。」
「もう昼休みあがりましょ。」筧葉子の声がとんだ。
「うん。そうしよう。」
「社にもどるか。」
「まだ余裕はあるけどね。」
筧は慎重に時間をプレイ時間をみていた様だ。たのしくはない。日々日常はルーティンのおきまり事で思考をめぐらす暇などなく過ごさざるを得ない人生手法を選んだ者にとってはね。
それと、感じながら疑問を残しわたしはまた業務に就いた。どうなんだろ?これって。ルーティンて生活するための手段と割り切ればそれ迄だがどうもちがう。感じわるい。日々実に前進がないんだ。ただ消化。これて意味があるのだろうか?解答を教えて戴きたいぐらいだ。だれかに。どなたかに。そうよねなんかいい解答ないかしら?ただ、だれかこんな貴重な教えを自分も努力して掴んだだろうしただで・・教えてくれるだろうか。いったいどんな報償でいくらの価値が要るんだろうか?それは解答を聴いてみないと払える報償は自分で価値判断したいところだ。価値がないものに高い対価は払いたくなしね。でもなんか不安・・。このままでいいのだろうかと。さてまた上司間抜輔五郎から苦情愚痴が飛んだ。自分としては叱って構ってもらえるうちが花だと自分なりには満足してる責任もそれなりに重いんだし。
「課増さん!この仕事教えてください。おねがいします。」と葉子が接近してきた。最近やけに慣れなれしい。
「うん。おれがやっとくよ。」
ただ、それだけなんだ。おれが解決できることって欲を際限まで延ばすと「おれのできることにないものはない。」なんて感じ悪い思考手段自己中心人間になる。ごめんだー。自分は自分なりに分をわきまえることは押さえてるつもりだ。親の教育もそうだったし。謙虚でありながら謙虚じゃない?というか、
「謙虚な態度は自尊ではなく真の謙虚の布石?つまり謙虚であることにときと場合によっては謙虚であり?ようはつかいわけだ。」
まぁ、いいでしょう。つまらん言葉上のお遊びだ。わたしは男でありながら男尊女卑なんてまっぴら御免だ。時代がそうだから?ちがいます。そういう志向なのです。言い換えれば、こうだ。
「そもそも男子たるもの、機能上、ほんとに上に置かれるものだろうか?しかしいまはすくなくともややであれ、男性上位。これは機能上、優れた男性が歴史の積み重ねでこのシステムをつくりあげた=機能上位なんだろうか?この点は深く考えねば・・。はぁつかれた。答えはどこにあるんだろう。」
仕事って一体なんなんだろう?本質について考えたことがあるひとは歴史上存在するのだろうか?どうしてこういう根本的なことを考えもせずみながやるから・・と躊躇なく先入観で就職するのだろう?それは尤も社会のシステムがそういうつくりになり、嫌が応でもせざるを得ない雰囲気・・。わたし自身は筧葉子を愛してる。とりわけ、個性的ではないが。そこがいい。みんな求めるものてそういうことではないだろうか?なんとなくの安定。奇抜は要らない。じゃないかな?24歳の僕にとって仕事の見栄えはどうでもいい。生活がかかっている。その一点だ。喰わせなきゃいけない。家庭を。でもゆとりは欲しいよね。物を考える。でもスタミナの限界じゃないかな?定職にありながらその道を外れた事象を考えるゆとりを持つことって?たばこ?嫌いだね。ヤニ中が。批難は受けましょう。愛煙家からのね。理解ができない。だめとわかってて始め続けること自体に疑問がわく。ただ、お答えしましょう。自由なんだ。それで商売がなりたつってそういうことじゃない?需要がない以上その商売にひとがからむわけがない。これは商売という概念が発生して以来の基本中の基本だと思っている。しかし、むづかしい。それはなぜかというと商売の媒介物として生み出された?「おかね。」がこれほど主流を人間界で占めるって発案者自身も予測出来たであろうか?否、便利な道具とわりきればいい。あればあるに越したことはないとね。だが、それだけに執着するのもいかがと。なんか薄っぺらいなあとおもわざるを得ない。金を趣味なんてありうるのだろうか。媒介物としてときには消費しときには老後の安定のためにとっておく。そじゃないかな。老後の安定と述べたが、ただの収入が得られるなくなったときのその時点の消費媒介物。完全そうだよね。札を拝んで楽しまれる方もおる様だが。こんなことをひとに話したことはない生意気だって殺されるよ。しかし原点はこうだ。金は媒介物これは疑いようがない。ただ、主流を思考形成の中であらゆる箇所で占める現実の歴史通過のためあまりにも融通が利く利点からとり過ぎてるだけだ。だからこそこう考えればいい。お年玉なんだとね。楽して稼ぐことに越したことはない。しかし、過剰に必要なんだろうか?そこに金という変な気が起きる麻薬がある。優越感。権力欲。独占欲。つまりだれにも過剰にあっても譲りたくない。という変な麻薬性。少々自分の頭の中に説教をぶち込み過ぎたようだ。仕事に戻ろう。
「おっと、もう5時だ。はやくかたづけよう。」とわたし。
「そうね。今日は金曜だもんね。やりのこしがあっちゃまずいは。」と葉子。