蛍が飛び交う頃
「タムラのオジサンが倒れた! 血を吐いた」
それだけで伝わった。たくさんの看護婦が走ってきて、倒れたタムラさんを病室に運んだ。
「ケイちゃん、ケイちゃん」と切なく叫ぶサヤカさんの声がいつまでもアキラの耳から離れなかった。
アキラは久しぶりにタムラさんとサヤカさんが一緒にいるところを見た。
その痩せた体にびっくりした。それにスケッチブックももっていなかった。
「もう、絵を描かないの?」
「体がよくなったら、また描くよ」
本当に良くなるのだろうか。そんな疑問が起ったが、アキラは何も言えなかった。
「もうじき、蛍の季節だ。すぐ近くに沢があって、そこに毎年たくさんの蛍が夏の夜空に飛び交うんだ。オジサンはそれが見たくて、この町に戻ってきたんだ」と笑った。
アキラにはどこまで本当の話なのか分からなかった。
アキラはサヤカさんの方を見て「オバサンもこの町の人?」
「違うわ。私は遠い都会の人よ。ふるさとなんかどこにもないの」と寂しそうに笑った。
「本当にふるさとがないの?」
「そうね。いつもあちこちお父さんの仕事のせいで、あちこち転々としていたから。でも、海の見える横浜がふるさとといえばふるさとかしら」。
「もう、蛍が飛んでいるかもしれない。アキラ君も一緒に見に行くか?」とタムラさんが言った。
「行く」とアキラは答えた。
蛍の沢は病院から近いところにあった。車で十分くらいのところであった。
蛍が飛び交っていた。
「蛍の一生は短いんだよ。ひと夏で消えるんだ。俺も蛍のように短い運命だったのかもしれない」とタムラさんはつぶやいた。
「そんなことはないよ。ケイちゃん」とサヤカさんが大きな声で言った。
「思えば、ずっと君を不幸してきた。何もしてやれなかった。今にして思えば、それだけが心残りだ」
「私はこうやって、そばにいるだけで十分に幸せです」
タムラさんは首を振り、「そういってくれるのはうれしいが、こうやっているのももう少しの命だということが自分でも分かる。今はそれも神様に感謝にしている。だって、やっと君を自由にしてやれるのだから」
サヤカさんは嗚咽した。その押し殺した声に、タムラさんは困ったような顔をした。
「ごめんなさい、泣いたりして」
サヤカさんは泣くのをやめた。
そばにいたアキラの手を軽く握って「変な話をしてごめんね」と言った。
数日後、ナカムラさんからタムラさんが大量の血を吐いて個室に入ったことを聞いた。
それから一週間後、アキラはサヤカさんが病室で大きな声を出して泣いている姿を見た。「タムラのオジサン、どうしたの?」と聞くと、サヤカさんは何も言わず泣きながら抱き締めた。それでアキラには何が起こったか分かった。
サヤカさんは「独りぼっちになってしまったの」と泣きながら言った。アキラも悲しくなって一緒に泣いた。
その後、サヤカさんがどうなったか分からないが、アキラは蛍が飛び交う頃になると、いつもあの優しそうな笑みを浮かべていたタムラさんの顔を思い出さずにはいられなかった。