蛍が飛び交う頃
『蛍が飛び交う頃』
春も終わり、蛍が飛び交う頃の話である。
アキラは急にお腹が痛くなり、救急車に運ばれて隣町の大きな病院に入った。お母さんが付き添った。
直ぐに手術した。さいわい無事に終わった。が、その夜、あまり痛さに泣いた。
付き添っていたお母さんが起きて、「どこが痛いの?」と体をさすった。
「大丈夫だよ。直ぐになるからね」と励ますと、不思議なことに痛みはしばらくして消えた。
入院して数日後、お母さんが言った。
「ずっと一緒にいてやりたいけど、働かないとご飯を食べられないでしょ。だからずっと一緒にいられないの、その代わり毎日来るからね」
アキラは泣きそうな顔をして「何時に来るの?」と聞いた。
「お昼頃には必ず来るからね」
アキラは寂しい気持ちを抑えるのが精いっぱいで何も言葉が出なかった。
「ちゃんと先生の言うことを聞かないといけないよ」と何度も言いきかせた。
大好きなお母さんを悲しませないとして、アキラは泣かなかったけれど、涙が自然と流れてくるのはどうしょうもなかった。お母さんがそっとその涙を拭いた。
アキラは窓から病院から出るお母さんの姿を見送った。お母さんは何度も振り返り手を振った。
暇なとき、アキラは決まって窓から病院の外を見ていた。それを見ているだけでも楽しかった。
ナカムラというバッチをつけた小さな看護婦が来て、「何を見ているの?」
「空を見ている。鳥も見えるよ」
青い空、水を一杯にたたえた田んぼ。風に揺れる緑の葉。それらが一望できたのである。
「楽しい?」と聞くと、
アキラはうなずいた。
「そりゃ、良かったね」
ナカムラさんは嬉しそうにうなずいた。それからしばらくして仲良しになった。アキラはナカムラさんが話すときの笑顔が好きだった。
その病院では、二階に大人が入院していた。
アキラはヒゲを生やした大人に興味を持ちった。後でその人がタムラさんだという名であることを知った。
アキラがなぜ彼に興味を持ったかというと、いつも絵を描いていたから。アキラも絵を描くのが好きだったから、どんな絵を描いているのか興味を持ったのだ。
ある日、彼が病院の庭で絵を描いていた。後ろからそっと覗きこんだ。病院から見える風景で、青い空の下で広がる水田を描いていた。
「絵は好きか?」と微笑みながら話をかけた。
ヒゲが濃かったので、とても怖い人か思っていたが、その何ともいえない優しい笑みに、アキラも笑みを浮かべ、「好き」と素直に答えた。
「おじさんの名はタムラ・ミチオと言うんだ。君は?」
「アキラ、イノウエ・アキラ」
それから直ぐに仲良しになり、「タムラのオジサン」と呼んだ。
タムラのオジサンはアキラにいろんな話をした。ずっと前から病院に入っているけれど、なかなか治らないことや、いつか立派な絵描きになるという夢があると言った。
タムラさんに毎日女の人が見舞いに来ていることにアキラは気づいた。お母さんよりもずっと若くて色白で、痩せていて、いつもいい匂いがした。
ある日、タムラさんは、偶然に出会ったアキラに紹介した。
「この人は僕の奥さんだよ。サヤカというんだ。この子はね。アキラ君というんだ」と言うと、
サヤカさんは、笑みを浮かべて、「よろしくね」と言った。
アキラは恥ずかしくて、ちょこんとうなずくのが精一杯だった。
アキラが入院して一週間が経った。
その日は初夏を思わせるような暑い日で、 サヤカさんは白い服に白い帽子を被ってきた。
お菓子を貰って、「ありがとう」と言ったアキラの顔をしみじみと見た。
アキラは「何か顔についている?」
サヤカさんは首を振り、「何もついていないよ」と微笑んだ。
「ふと、思い出してしまったの」
「何を?」
「あのね、私にもあなたくらいの子がいたんだけど、もういないの」
「どこへ行ったの?」
「遠くへ行ったの」
「遠くって、どこ?」
「天国よ」
サヤカさんの目が薄っすらと涙がにじんだ。
アキラは見てはいけないものを見てしまったような気持ちになってうつむいた。同時に切ない気持ちになった。
「ごめんね、変な話をして」
ハンカチを取り出し、そっと目に押し当てた。
サヤカさんがタムラさんのために風鈴を買ってきた。それをアキラにも見せた。
「風鈴の音は好きだ。遠い日の夏を思い出す」とタムラさんが言うと、
アキラは「どれくらい昔?」とたずねた。
「遠い、遠い。そうだな、アキラ君が生まれる前」
「なぜか、遠い外国で暮らしたときのことを思い出す。今、思うとあの頃が一番幸せであったかもしれないな」
目を閉じて、遠い異国の話をアキラに聞かせた。異国の建物、街の賑わい、音楽、みな不思議に満ちていると。
朝から雨が降っていた。霧雨のような細かい雨だった。
アキラが窓から病院の裏庭を眺めていると、ツツジのような木から小さな白いものが動くのが見えた。
何だろうと思って、病室を抜け出して行った。
何かの鳴き声に気づいた。
何だろうと思って耳をすますと、子猫のような鳴き声だった。
茂みの中に首を突っ込んでのぞくと、小さな白い猫がいた。震えていた。
アキラがなぜると、その指をなめた。 手のひらにのせると、何ともかわいらしい声で“ニャ―、ニャー”と鳴いた。 あたりも見回しても子猫以外いない。
アキラは助けてやりたかったが、どう考えても、どうすることもできないが分かり、子猫を元の場所に戻して帰ろうとした。すると子猫も危なかったしい足取りでついてくる。
しゃがんで、子猫をなぜた。
「だめだよ。ついてきちゃ。病院の中じゃ、飼えないもの」と言い聞かせた。それでも子猫はついてくるので、アキラは走って逃げた。アキラは悪いことをしたような気がした。
病室に戻ってから急に疲れを感じて眠った。
しばらく眠った後、起きて空を眺めた。
空にはいろんな鳥が飛んでいた。大きな鳥もいて、大きな円を描いて飛んでいた。何かを見つけたかのように急に降りてきた。ちょうど、病院の裏庭に消えた。
アキラははっと思った。子猫が危ない!
アキラは急いで裏庭に行った。ずいぶんと子猫を探したけれどいなかった。
もし、あの大きな鳥に食べられて、死んだら、どうしょう。死んだら自分のせいだ。そう思うと、悲しくて涙が出てきた。
アキラが泣いているところをタムラさんが見つけて、「どうしたの?」と聞いた。
アキラは子猫のことを話した。タムラさんは話を聞き終わると「アキラくんは優しいね。その優しさを忘れちゃだめだよ」と言った。
タムラさんは日増しに弱っていった。病室からできることも少なくなった。
アキラが絵を描くタムラさんのそばにいたとき、突然激しく咳き込みうずくまった。慌てて塞いだ手が血で染まった。近くにいたサヤカさんが異変に気づき飛んできた。いつも穏やかな表情をしているサヤカさんが大きな声で、「ケイちゃん、ケイちゃん、大丈夫?」
アキラはサヤカさんの必死な顔にびっくりした。いつもほほ笑んでいるのに、その時は恐ろしく緊張した顔をしていたから。
「ねえ、アキラ君、看護婦を呼んで!」
走って看護婦を呼びに行った。
春も終わり、蛍が飛び交う頃の話である。
アキラは急にお腹が痛くなり、救急車に運ばれて隣町の大きな病院に入った。お母さんが付き添った。
直ぐに手術した。さいわい無事に終わった。が、その夜、あまり痛さに泣いた。
付き添っていたお母さんが起きて、「どこが痛いの?」と体をさすった。
「大丈夫だよ。直ぐになるからね」と励ますと、不思議なことに痛みはしばらくして消えた。
入院して数日後、お母さんが言った。
「ずっと一緒にいてやりたいけど、働かないとご飯を食べられないでしょ。だからずっと一緒にいられないの、その代わり毎日来るからね」
アキラは泣きそうな顔をして「何時に来るの?」と聞いた。
「お昼頃には必ず来るからね」
アキラは寂しい気持ちを抑えるのが精いっぱいで何も言葉が出なかった。
「ちゃんと先生の言うことを聞かないといけないよ」と何度も言いきかせた。
大好きなお母さんを悲しませないとして、アキラは泣かなかったけれど、涙が自然と流れてくるのはどうしょうもなかった。お母さんがそっとその涙を拭いた。
アキラは窓から病院から出るお母さんの姿を見送った。お母さんは何度も振り返り手を振った。
暇なとき、アキラは決まって窓から病院の外を見ていた。それを見ているだけでも楽しかった。
ナカムラというバッチをつけた小さな看護婦が来て、「何を見ているの?」
「空を見ている。鳥も見えるよ」
青い空、水を一杯にたたえた田んぼ。風に揺れる緑の葉。それらが一望できたのである。
「楽しい?」と聞くと、
アキラはうなずいた。
「そりゃ、良かったね」
ナカムラさんは嬉しそうにうなずいた。それからしばらくして仲良しになった。アキラはナカムラさんが話すときの笑顔が好きだった。
その病院では、二階に大人が入院していた。
アキラはヒゲを生やした大人に興味を持ちった。後でその人がタムラさんだという名であることを知った。
アキラがなぜ彼に興味を持ったかというと、いつも絵を描いていたから。アキラも絵を描くのが好きだったから、どんな絵を描いているのか興味を持ったのだ。
ある日、彼が病院の庭で絵を描いていた。後ろからそっと覗きこんだ。病院から見える風景で、青い空の下で広がる水田を描いていた。
「絵は好きか?」と微笑みながら話をかけた。
ヒゲが濃かったので、とても怖い人か思っていたが、その何ともいえない優しい笑みに、アキラも笑みを浮かべ、「好き」と素直に答えた。
「おじさんの名はタムラ・ミチオと言うんだ。君は?」
「アキラ、イノウエ・アキラ」
それから直ぐに仲良しになり、「タムラのオジサン」と呼んだ。
タムラのオジサンはアキラにいろんな話をした。ずっと前から病院に入っているけれど、なかなか治らないことや、いつか立派な絵描きになるという夢があると言った。
タムラさんに毎日女の人が見舞いに来ていることにアキラは気づいた。お母さんよりもずっと若くて色白で、痩せていて、いつもいい匂いがした。
ある日、タムラさんは、偶然に出会ったアキラに紹介した。
「この人は僕の奥さんだよ。サヤカというんだ。この子はね。アキラ君というんだ」と言うと、
サヤカさんは、笑みを浮かべて、「よろしくね」と言った。
アキラは恥ずかしくて、ちょこんとうなずくのが精一杯だった。
アキラが入院して一週間が経った。
その日は初夏を思わせるような暑い日で、 サヤカさんは白い服に白い帽子を被ってきた。
お菓子を貰って、「ありがとう」と言ったアキラの顔をしみじみと見た。
アキラは「何か顔についている?」
サヤカさんは首を振り、「何もついていないよ」と微笑んだ。
「ふと、思い出してしまったの」
「何を?」
「あのね、私にもあなたくらいの子がいたんだけど、もういないの」
「どこへ行ったの?」
「遠くへ行ったの」
「遠くって、どこ?」
「天国よ」
サヤカさんの目が薄っすらと涙がにじんだ。
アキラは見てはいけないものを見てしまったような気持ちになってうつむいた。同時に切ない気持ちになった。
「ごめんね、変な話をして」
ハンカチを取り出し、そっと目に押し当てた。
サヤカさんがタムラさんのために風鈴を買ってきた。それをアキラにも見せた。
「風鈴の音は好きだ。遠い日の夏を思い出す」とタムラさんが言うと、
アキラは「どれくらい昔?」とたずねた。
「遠い、遠い。そうだな、アキラ君が生まれる前」
「なぜか、遠い外国で暮らしたときのことを思い出す。今、思うとあの頃が一番幸せであったかもしれないな」
目を閉じて、遠い異国の話をアキラに聞かせた。異国の建物、街の賑わい、音楽、みな不思議に満ちていると。
朝から雨が降っていた。霧雨のような細かい雨だった。
アキラが窓から病院の裏庭を眺めていると、ツツジのような木から小さな白いものが動くのが見えた。
何だろうと思って、病室を抜け出して行った。
何かの鳴き声に気づいた。
何だろうと思って耳をすますと、子猫のような鳴き声だった。
茂みの中に首を突っ込んでのぞくと、小さな白い猫がいた。震えていた。
アキラがなぜると、その指をなめた。 手のひらにのせると、何ともかわいらしい声で“ニャ―、ニャー”と鳴いた。 あたりも見回しても子猫以外いない。
アキラは助けてやりたかったが、どう考えても、どうすることもできないが分かり、子猫を元の場所に戻して帰ろうとした。すると子猫も危なかったしい足取りでついてくる。
しゃがんで、子猫をなぜた。
「だめだよ。ついてきちゃ。病院の中じゃ、飼えないもの」と言い聞かせた。それでも子猫はついてくるので、アキラは走って逃げた。アキラは悪いことをしたような気がした。
病室に戻ってから急に疲れを感じて眠った。
しばらく眠った後、起きて空を眺めた。
空にはいろんな鳥が飛んでいた。大きな鳥もいて、大きな円を描いて飛んでいた。何かを見つけたかのように急に降りてきた。ちょうど、病院の裏庭に消えた。
アキラははっと思った。子猫が危ない!
アキラは急いで裏庭に行った。ずいぶんと子猫を探したけれどいなかった。
もし、あの大きな鳥に食べられて、死んだら、どうしょう。死んだら自分のせいだ。そう思うと、悲しくて涙が出てきた。
アキラが泣いているところをタムラさんが見つけて、「どうしたの?」と聞いた。
アキラは子猫のことを話した。タムラさんは話を聞き終わると「アキラくんは優しいね。その優しさを忘れちゃだめだよ」と言った。
タムラさんは日増しに弱っていった。病室からできることも少なくなった。
アキラが絵を描くタムラさんのそばにいたとき、突然激しく咳き込みうずくまった。慌てて塞いだ手が血で染まった。近くにいたサヤカさんが異変に気づき飛んできた。いつも穏やかな表情をしているサヤカさんが大きな声で、「ケイちゃん、ケイちゃん、大丈夫?」
アキラはサヤカさんの必死な顔にびっくりした。いつもほほ笑んでいるのに、その時は恐ろしく緊張した顔をしていたから。
「ねえ、アキラ君、看護婦を呼んで!」
走って看護婦を呼びに行った。