芽吹くことなく
一.
惇が保健室登校を始めたきっかけ、とってもよく覚えている。
三ヶ月前のバレンタインデーだった。高校生活が始まっておよそ一年近くが経ち、そろそろ二年生に進級するぞ、って頃。今はちょうどゴールデンウィークが明けて、校内中に春めいた空気と五月病が蔓延しているけれど、あの頃は、まだたくさんの雪が融けきれずに道路のあちこちに溜まっていた。
クラスの中で一番かわいらしく目立っている女子のグループが、黄色い声と共に行うチョコレート配り。
他のクラスはどうなのか知らないけれど、うちのクラスは生徒間の『落差』みたいな、『格』みたいなものがはっきり決まってしまっている。
この女子グループの言うことには絶対服従、反論も許されないような風潮が、いつの間にか出来あがってしまっていた。席替えの段取りもこの子たちの言う通り。体育祭のリレーの走り順も、文化祭の出し物も、全部あの子たちの言う通り。
だから、あいつらが誰かを無視しろって命令したなら、それもその通りになる。
惇はターゲット、標的、みせしめだった。知らないうちに築き上げられていた独裁政権の下で、彼は晒しものにされた。
とことん無視されたし、弾き出された。課題のプリントも回されない。週に三回は日直だし、自分の上履きじゃなくて来客者用のスリッパを履く。何度買い直してもどこかに捨てられてしまうからだった。
「ごめんねえ、惇くんの分のチョコ、ないの」
甘い、猫のような声が後ろから聞こえて、振り向いたら、惇が教室の床に寝ていた。
ううん、寝ていたんじゃなくて、寝かされていた。
きちんと椅子に座っていたところを、蹴倒されて、踏まれて、白いシャツに靴痕がついて。
惇以外の男子には、全員にひとつずつチョコレートが配られていて、薄いピンク色のラッピングが、とっても愛らしかった。
でもそれを手掛けたやつらの心はどこまでもどす黒いんだってば。みんな、目覚まそうよ。
一体だれを無視しているの。
ぐりぐりとわき腹を踏まれて苦しそうに黙っている惇の近くに歩いていって、かがみこんで耳元に吹き込んだ。
「立って」
涙の膜が張られていた両方の眼球が、そっと動く。
いいの? ってその目が問いかけていた。僕、動いてもいいの、立ってもいいの、って、訊ねている目。
「いいから、立って」
惇がイジめられているのは私のせいだから、私が許せばあなたは動いたっていい。
彼のわき腹を踏みつけていた足がどく。晴れて自由の身になった。私が手を貸すと、惇はゆっくりと時間をかけながら立ちあがった。触れた両手が大きくて骨ばっていて、でも驚くほど冷たくて、ドキリとする。
こんな立派な手の持ち主でも、運が悪ければ退け者にされる。
私をかばってしまったばっかりに。
「惇、ごめんね」
「美都子のせいじゃないよ」
周りのみんなに聞き取られないくらいの音量で囁かれる会話。そのまま教室から出ようとする私たち二人のことを、クラス中の生徒が黙って目で追っていた。
「イジめられっ子同士、やっぱり仲がよろしいこと」
わき腹踏みつけ女(名前、忘れちゃった)が刺すように口にする。それを聞いて、私は安堵する。
よかった。自分がイジめっ子だっていう自覚、ちゃんとあるんだわ。
惇が保健室登校を始めたきっかけ、とってもよく覚えている。
三ヶ月前のバレンタインデーだった。高校生活が始まっておよそ一年近くが経ち、そろそろ二年生に進級するぞ、って頃。今はちょうどゴールデンウィークが明けて、校内中に春めいた空気と五月病が蔓延しているけれど、あの頃は、まだたくさんの雪が融けきれずに道路のあちこちに溜まっていた。
クラスの中で一番かわいらしく目立っている女子のグループが、黄色い声と共に行うチョコレート配り。
他のクラスはどうなのか知らないけれど、うちのクラスは生徒間の『落差』みたいな、『格』みたいなものがはっきり決まってしまっている。
この女子グループの言うことには絶対服従、反論も許されないような風潮が、いつの間にか出来あがってしまっていた。席替えの段取りもこの子たちの言う通り。体育祭のリレーの走り順も、文化祭の出し物も、全部あの子たちの言う通り。
だから、あいつらが誰かを無視しろって命令したなら、それもその通りになる。
惇はターゲット、標的、みせしめだった。知らないうちに築き上げられていた独裁政権の下で、彼は晒しものにされた。
とことん無視されたし、弾き出された。課題のプリントも回されない。週に三回は日直だし、自分の上履きじゃなくて来客者用のスリッパを履く。何度買い直してもどこかに捨てられてしまうからだった。
「ごめんねえ、惇くんの分のチョコ、ないの」
甘い、猫のような声が後ろから聞こえて、振り向いたら、惇が教室の床に寝ていた。
ううん、寝ていたんじゃなくて、寝かされていた。
きちんと椅子に座っていたところを、蹴倒されて、踏まれて、白いシャツに靴痕がついて。
惇以外の男子には、全員にひとつずつチョコレートが配られていて、薄いピンク色のラッピングが、とっても愛らしかった。
でもそれを手掛けたやつらの心はどこまでもどす黒いんだってば。みんな、目覚まそうよ。
一体だれを無視しているの。
ぐりぐりとわき腹を踏まれて苦しそうに黙っている惇の近くに歩いていって、かがみこんで耳元に吹き込んだ。
「立って」
涙の膜が張られていた両方の眼球が、そっと動く。
いいの? ってその目が問いかけていた。僕、動いてもいいの、立ってもいいの、って、訊ねている目。
「いいから、立って」
惇がイジめられているのは私のせいだから、私が許せばあなたは動いたっていい。
彼のわき腹を踏みつけていた足がどく。晴れて自由の身になった。私が手を貸すと、惇はゆっくりと時間をかけながら立ちあがった。触れた両手が大きくて骨ばっていて、でも驚くほど冷たくて、ドキリとする。
こんな立派な手の持ち主でも、運が悪ければ退け者にされる。
私をかばってしまったばっかりに。
「惇、ごめんね」
「美都子のせいじゃないよ」
周りのみんなに聞き取られないくらいの音量で囁かれる会話。そのまま教室から出ようとする私たち二人のことを、クラス中の生徒が黙って目で追っていた。
「イジめられっ子同士、やっぱり仲がよろしいこと」
わき腹踏みつけ女(名前、忘れちゃった)が刺すように口にする。それを聞いて、私は安堵する。
よかった。自分がイジめっ子だっていう自覚、ちゃんとあるんだわ。