様にならない死に方
しかし、首が攣(つ)って死ぬ人間はいるのだろうか? この「攣る」は「足をつる」の「攣る」である。
私は首を吊って死ぬ人間は首を吊った瞬間、首が攣っているのではないかと思う。死因を調べる検視官は実はそのことを知っているが、そんなことを発表したら死んだ人がかわいそうだと思って黙っているのではないか。
もしくは首を吊ろうとした人がロープに首をかけようと伸ばした時、首が攣って思わず「イタタタタ!」となるとする。
そしたら「今から首を吊ろうとする人間が首を攣って痛がっているなんてバカだな。ああ、オレはこんなにまぬけな人間なんだ。生きてても仕方ないんだ。もう死のう」と言って首を吊ると、その瞬間にまた首を攣って、もうなにがなんだかわけがわからない死に方になる場合もあると思う。
死ぬことにだって、こんな感じのことがいっぱい隠されているような気がする。
ほかの死に方にしてもそうだ。わざとそういうのを狙った人も出てくるかもしれない。
例えば、水着を着て水泳帽をかぶってゴーグルをつけてスタンバイした人が、「せーの」で電車に飛び込むとする。そしたら「飛び込むとこ違うよー!」というツッコミが入るかもしれない。
しかし、こういうことだって新聞なんかには取り上げられないだろう。
車に轢かれる死に方にしてもそうだ。横断歩道を歩いていた歩行者が、突っ込んできた車にぶっ飛ばされるとする。
そしたらそのぶっ飛ばされた歩行者がフィギィアスケートのジャンプみたいに、クルクルクルー!と4回転したとする。
車の運転手は実はフィギィアスケートのファンで歩行者が回転している間、ほんの一瞬感動してしまうが、警察に取調べを受けている時に小泉首相みたいに「感動した!」とは言えないはずだ。
絶望の中にも、ふと気の抜ける瞬間はあると思う。
一見悲しく見える出来事にだって、そこに微々たる物語が存在するかもしれないのだ。