心
心
私は目を覚ました。私の家は横浜にあるが、職場は藤沢市にある。腰痛を持つ私にとっては、重い金属を扱う仕事は困難であった。
頭が痛い。体が重い。私はこれらの症状を一掃する手段を知っている。簡単だ。
職場に休暇の電話を入れるだけでよい。
たったこれだけで頭痛も腰痛もスッキリ治ってしまうのだ。
三度これをやれば首になるのは承知だが、私は今日、この日に3度目の電話を入れた。程なく、退職の手続きをするために最後の出社をする。
今回のバイトも長持ちしなかった。近くて、趣味の音楽が活かせて、やりがいのある仕事がいい。いや、贅沢は言うまい。腰に爆弾があるなら、コンピュータ関連の仕事を探してみよう。
早速インターネットの求人サイトを開くとあっさり出てきた。マニュアルにそって電話を取り、パソコンに関する質問や問題の解決をしていくという募集だ。私は『パソコンが使えるんだぞ』とアピールするためにMIDI検定3級の資格を履歴書に書いてアピールした。見事に採用を得てDTMの心得を活かしてインターネット上で企業をアピールする上でのサウンドエンジニアを任された。
私はスキルをフルに活用して応えた。さらにはDTM講座をウェブ上で展開するために、様々に動き、会社に尽くすつもりでいた。
このとき、しばしば喫煙所で同席する女性と親交を深めていた。彼女は画家であり、様々なイラストを担当していた。
私は友人以上の親交を提案した。結果はその場で提案を受理され、今の言葉で言う“リア充”であった。
仕事と恋愛の両立こそ人間として最高の輝きであるが、このころから、心がモヤモヤしたり、集中力が欠落するなど、小さな異常が出始めた。
鼓動がやけに耳障りで胸の辺りが苦しい。頭の中では一定の単語がグルグルと回り、気がおかしくなっていた。
夜分に電話があり、一人暮らしの寂しさに負けた彼女からSOSを受け、直ちに急行した。このときもやはり同じ状態だったが、こちらも一人ぼっちじゃなければ幾分ラクだろうと判断した。
彼女の家に到着すると、私の顔色がよほど悪かったのを彼女は見逃さなかった。そこでこれまでのいきさつをすべて話した。彼女はなにかを決意したように自分の薬箱から青い錠剤の入った小さな銀のパウチを取り出した。パウチにはハルシオンと書いてあり、丁寧にも彼女がインターネットの情報でハルシオンについて検索し、説明を読ませてもらった。本人は怪しい薬じゃないことを言いたかったのだろう。
このときの私は薬についての知識はなかった。元気になれるなら、違法すらもいとわないつもりでいた。すべては音楽と恋愛の究極の両立のためだ。
私は楕円形で青い錠剤、ハルシオンをその場で飲んだ。花粉症の薬と頭痛薬しか知らない私が生まれて初めて飲んだ向精神薬である。
薬を飲んで30分ほどだろうか、うつむいてじっと胸のモヤモヤに耐えていたが、スッと消えた。ハッとしたがその瞬間に頭が軽くなった。口を開くとためらいのない声が出る。夜中の12時を過ぎていたのに一人ではしゃいだ。
入社してふた月ほどのふた月ぶりのはしゃぎようだった。
その後、彼女に医者に行くように言われ、私の闘病生活がスタートする。
初めての診察では、頭痛は他の手段を考えるよう言われ、パキシル、レキソタン、マイスリーの三種類の薬が処方された。薬局で説明を受けると、パキシルは効き目がでるまで約2週間、それまで体のだるさなどの副作用が出るらしい。
レキソタンは心を穏やかにする薬と言われ、マイスリーは自然な眠気で夜の眠りを安定させるという説明だった。
記述が遅れたが、彼女もまた精神疾患を患っている。どの薬の話をしても会話はかみ合った。しかし、私の仕事への気力は次第に衰えて、結局退社になってしまった。最高の仕事を最悪の形で失ったのだ。
次第に薬が増えて行くが、当時の私は薬の恐ろしさなど知らず、実に10を越える種類の薬を処方されていた。
ある日、彼女が入院を決意した。考え抜いて得た結論だ。私は1ヶ月間なにもできずにいた上、入院中の彼女に電話を取り次いでもらっては自分の中の暗黒を吐いていた。当然ながらこんなことでは破局である。
音楽の仕事を失い、心の支えを失った私はただただ薬に逃げ続けた。このとき、市販の鎮痛剤が活路になることに気がついた。間違っている手段だが、当時の私にも現在の私にも必要不可欠のものだった。
この辺りから記憶が欠けている。覚えているのは血だらけの自分の腕とカミソリ。警察がうちに来たこと。次の瞬間には牢屋とも言える病院の一室だった。
大きな病院で全面禁煙。実に厳しい環境だが一週間もすると、ボロボロの病院に移された。市が定めたシステムらしい。
ゲームも無ければ周囲は考え得るあらゆる狂気に満ちた人間ばかり。タバコをたかってくる人もいた。
入院中は看護士が薬袋を徹底管理し、患者は口を開いて、看護士から薬を飲まされる。つまり拒否権が無い。
私に出された薬はユーパン(ワイパックスのジェネリック)、リスパダール、リスミー、ベゲタミンだった。この中でリスパダールが悪さをして、まずろれつが回らなくなった。深酒をして何を話しているのかわからないようなしゃべりになった。
次に全身の震えとこわばり、鎮座不能という姿勢が維持できない症状、視点が合わなくなるなどの症状にみまわれた。
先ほど記述したように薬にかんしては拒否権がない。この状態で実に1ヵ月を過ごしたが、無事に退院できた。
退院後の主な処方は、ユーパン、レボトミン、トレドミン、リスミーだった。
生活は相変わらずグチャグチャだが、親はなにも言わなかった。私は時折音楽を思い出しながらも悠々自適に過ごした。
この中で、リスパダールのような薬には金輪際出会わないように薬に関して調べ上げる習慣がついた。
私は現在の病院は正直嫌気がさしていた。理不尽に待たされる薬局、バスで30分…あんまり考えてくれない医者…。
そこで私は医者を変えることにした。家から近い医者だったが全部の薬をいきなり止められてしまった。不眠や症状をいくら訴えても一切薬を出さない。頭のおかしい医者に当たるほどの不幸はない。私は迷わず医者を変えた。
中には入院経験があるという理由であからさまに邪険にする医者もいた。そんな中で現在の医者と出会った。
私は欲しい薬を述べ、そのままレキソタンとトレドミンをもらった。このときはちょうどオリンピックが開催されていたが、オープニングの次の瞬間が閉会式だった。そして次の瞬間には病院のベッドの上だった。
胃の激痛が激しく、まさにのたうち回ること2日間。大静脈に点滴を施工する小さな手術中に動くなと言われてもあまりの痛さに身悶えた。
だが3日ほどで激痛は軽くなっていき、一週間して胃カメラを飲んだ時はかなり回復していた。流動食から、普通の食事に戻り、点滴もなくなり、当直医も今回は病院の移動をしなくてもいいという結論になって退院した。袋と言うよりカバンと言えるようなサイズの袋に胃薬がこれでもかというほど入っている。このとき、私は一切の薬と決別することにした。
この入院中に精神科医が何回か回診にきてくれた。私はこのときにズバリ話した。
「私にベンゾジアゼピンは良くないようです。」
私は目を覚ました。私の家は横浜にあるが、職場は藤沢市にある。腰痛を持つ私にとっては、重い金属を扱う仕事は困難であった。
頭が痛い。体が重い。私はこれらの症状を一掃する手段を知っている。簡単だ。
職場に休暇の電話を入れるだけでよい。
たったこれだけで頭痛も腰痛もスッキリ治ってしまうのだ。
三度これをやれば首になるのは承知だが、私は今日、この日に3度目の電話を入れた。程なく、退職の手続きをするために最後の出社をする。
今回のバイトも長持ちしなかった。近くて、趣味の音楽が活かせて、やりがいのある仕事がいい。いや、贅沢は言うまい。腰に爆弾があるなら、コンピュータ関連の仕事を探してみよう。
早速インターネットの求人サイトを開くとあっさり出てきた。マニュアルにそって電話を取り、パソコンに関する質問や問題の解決をしていくという募集だ。私は『パソコンが使えるんだぞ』とアピールするためにMIDI検定3級の資格を履歴書に書いてアピールした。見事に採用を得てDTMの心得を活かしてインターネット上で企業をアピールする上でのサウンドエンジニアを任された。
私はスキルをフルに活用して応えた。さらにはDTM講座をウェブ上で展開するために、様々に動き、会社に尽くすつもりでいた。
このとき、しばしば喫煙所で同席する女性と親交を深めていた。彼女は画家であり、様々なイラストを担当していた。
私は友人以上の親交を提案した。結果はその場で提案を受理され、今の言葉で言う“リア充”であった。
仕事と恋愛の両立こそ人間として最高の輝きであるが、このころから、心がモヤモヤしたり、集中力が欠落するなど、小さな異常が出始めた。
鼓動がやけに耳障りで胸の辺りが苦しい。頭の中では一定の単語がグルグルと回り、気がおかしくなっていた。
夜分に電話があり、一人暮らしの寂しさに負けた彼女からSOSを受け、直ちに急行した。このときもやはり同じ状態だったが、こちらも一人ぼっちじゃなければ幾分ラクだろうと判断した。
彼女の家に到着すると、私の顔色がよほど悪かったのを彼女は見逃さなかった。そこでこれまでのいきさつをすべて話した。彼女はなにかを決意したように自分の薬箱から青い錠剤の入った小さな銀のパウチを取り出した。パウチにはハルシオンと書いてあり、丁寧にも彼女がインターネットの情報でハルシオンについて検索し、説明を読ませてもらった。本人は怪しい薬じゃないことを言いたかったのだろう。
このときの私は薬についての知識はなかった。元気になれるなら、違法すらもいとわないつもりでいた。すべては音楽と恋愛の究極の両立のためだ。
私は楕円形で青い錠剤、ハルシオンをその場で飲んだ。花粉症の薬と頭痛薬しか知らない私が生まれて初めて飲んだ向精神薬である。
薬を飲んで30分ほどだろうか、うつむいてじっと胸のモヤモヤに耐えていたが、スッと消えた。ハッとしたがその瞬間に頭が軽くなった。口を開くとためらいのない声が出る。夜中の12時を過ぎていたのに一人ではしゃいだ。
入社してふた月ほどのふた月ぶりのはしゃぎようだった。
その後、彼女に医者に行くように言われ、私の闘病生活がスタートする。
初めての診察では、頭痛は他の手段を考えるよう言われ、パキシル、レキソタン、マイスリーの三種類の薬が処方された。薬局で説明を受けると、パキシルは効き目がでるまで約2週間、それまで体のだるさなどの副作用が出るらしい。
レキソタンは心を穏やかにする薬と言われ、マイスリーは自然な眠気で夜の眠りを安定させるという説明だった。
記述が遅れたが、彼女もまた精神疾患を患っている。どの薬の話をしても会話はかみ合った。しかし、私の仕事への気力は次第に衰えて、結局退社になってしまった。最高の仕事を最悪の形で失ったのだ。
次第に薬が増えて行くが、当時の私は薬の恐ろしさなど知らず、実に10を越える種類の薬を処方されていた。
ある日、彼女が入院を決意した。考え抜いて得た結論だ。私は1ヶ月間なにもできずにいた上、入院中の彼女に電話を取り次いでもらっては自分の中の暗黒を吐いていた。当然ながらこんなことでは破局である。
音楽の仕事を失い、心の支えを失った私はただただ薬に逃げ続けた。このとき、市販の鎮痛剤が活路になることに気がついた。間違っている手段だが、当時の私にも現在の私にも必要不可欠のものだった。
この辺りから記憶が欠けている。覚えているのは血だらけの自分の腕とカミソリ。警察がうちに来たこと。次の瞬間には牢屋とも言える病院の一室だった。
大きな病院で全面禁煙。実に厳しい環境だが一週間もすると、ボロボロの病院に移された。市が定めたシステムらしい。
ゲームも無ければ周囲は考え得るあらゆる狂気に満ちた人間ばかり。タバコをたかってくる人もいた。
入院中は看護士が薬袋を徹底管理し、患者は口を開いて、看護士から薬を飲まされる。つまり拒否権が無い。
私に出された薬はユーパン(ワイパックスのジェネリック)、リスパダール、リスミー、ベゲタミンだった。この中でリスパダールが悪さをして、まずろれつが回らなくなった。深酒をして何を話しているのかわからないようなしゃべりになった。
次に全身の震えとこわばり、鎮座不能という姿勢が維持できない症状、視点が合わなくなるなどの症状にみまわれた。
先ほど記述したように薬にかんしては拒否権がない。この状態で実に1ヵ月を過ごしたが、無事に退院できた。
退院後の主な処方は、ユーパン、レボトミン、トレドミン、リスミーだった。
生活は相変わらずグチャグチャだが、親はなにも言わなかった。私は時折音楽を思い出しながらも悠々自適に過ごした。
この中で、リスパダールのような薬には金輪際出会わないように薬に関して調べ上げる習慣がついた。
私は現在の病院は正直嫌気がさしていた。理不尽に待たされる薬局、バスで30分…あんまり考えてくれない医者…。
そこで私は医者を変えることにした。家から近い医者だったが全部の薬をいきなり止められてしまった。不眠や症状をいくら訴えても一切薬を出さない。頭のおかしい医者に当たるほどの不幸はない。私は迷わず医者を変えた。
中には入院経験があるという理由であからさまに邪険にする医者もいた。そんな中で現在の医者と出会った。
私は欲しい薬を述べ、そのままレキソタンとトレドミンをもらった。このときはちょうどオリンピックが開催されていたが、オープニングの次の瞬間が閉会式だった。そして次の瞬間には病院のベッドの上だった。
胃の激痛が激しく、まさにのたうち回ること2日間。大静脈に点滴を施工する小さな手術中に動くなと言われてもあまりの痛さに身悶えた。
だが3日ほどで激痛は軽くなっていき、一週間して胃カメラを飲んだ時はかなり回復していた。流動食から、普通の食事に戻り、点滴もなくなり、当直医も今回は病院の移動をしなくてもいいという結論になって退院した。袋と言うよりカバンと言えるようなサイズの袋に胃薬がこれでもかというほど入っている。このとき、私は一切の薬と決別することにした。
この入院中に精神科医が何回か回診にきてくれた。私はこのときにズバリ話した。
「私にベンゾジアゼピンは良くないようです。」
作品名:心 作家名:peacementhol