表と裏の狭間には 十二話―柊家の黄昏―
彼女は俺に従順で、寛大だが、絶対に本気で怒らせてはならない。
軽く怒ることはよくあるが、その怒りはむしろ可愛いものだ。
だが。
俺は過去二回、雫が本気で怒ったところを見た。
一度は父に対して。一度は俺に対して。
一度目は親友が消えた直後、それが父親のせいだと知ったとき。
その時はあの父をも平謝りさせ。
二度目は三年前。
事情は話せないが、雫を酷く傷つけてしまったとき。
あの時は条件反射で自殺しそうになった。
つまり、それほどの怒りなのだ。雫の怒りとは。
…………………………。
皆さん申し訳ありません。人生終了のサインかもしれません。
「誰なの?お兄ちゃん。その人は、お兄ちゃんの何?」
クラスメイト、と答えても無駄に終わりそうだった。
雫は、直感が鋭いのだ。実は。
俺のことに関しては。
「か、彼女…………です。」
自然と敬語。
「あははは。」
だが彼女は、唐突に笑った。
「面白い冗談だねお兄ちゃん。本当に面白いよ。で、真面目に誰?」
「光彩消えてますよ雫!?光彩を取り戻せ!!」
「誰なの…………?ねぇ、お兄ちゃん?」
「か、か、か、彼女…………です。」
「ふぅん………。」
雫は、光彩の消えた瞳を閉じ、ゆっくりと頷いた。
「ああ、夢か。寝よ寝よ。」
「現実逃避やめぇええええええええええい!」
最終的に夢オチに持っていくようだった。
いや、夢オチに持っていってくれたほうがいいのか?
「えっと、雫ちゃん?」
と、これまで雫の気配に気圧されていた蓮華が、雫に話しかける。
が。
「どうぞ、お茶漬けでも召し上がっていってください。」
「帰れっつってるよなぁ!?なぁ!?」
京都以外でその台詞を聞いても意味がはっきりと分かるって、珍しいと思います。
そこで。
再び、雫の剣幕に一歩押された蓮華が、一歩前に出て言った。
「今日の私はあなたに屈しませんわ!『前回』の時は挑もうとは思いませんでしたが、今回は違います!今回は!私はあなたに!」
「宣戦布告を行います!」
胸を張り、雫を見据えて啖呵を切った。
それを受けた雫は、鼻で笑う。
「ふん。前回?あなた前に一度お兄ちゃんに告白して失敗でもしたんですか?そんな体たらくで二度目があるとでも?」
「お、おい雫――」
「紫苑は口を出さないで下さい。」
蓮華が、俺を止める。
「私は、雫ちゃんと話しているんです。」
「私も、今この女と話してるの。邪魔しないでくれるかな?お兄ちゃん?」
「………………。」
何だこの二人。
見ている端からどんどんと連鎖的にヒートアップしていくぞ。
二人の言い合いはどんどん激しくなっていく。
蓮華も雫も、譲る気がないようだ。
だが。一つ疑問がある。
この二人は、何故ここまで熱くなっているのか?
まあ、蓮華は………その…………俺のことを、好いてくれているわけだし。
雫を説き伏せて正式に交際しようという発想は理解できなくもない。
だが、雫はどうしてだ?
どうして、こいつはここまで抵抗する?
「面白い。やれるものならやって見なさい。お兄ちゃんは渡しません。」
「ええ。やってやりますとも。今回の私を、見くびらないで下さいね?」
…………。
今回、今回って、どういうことだ?
こいつら、前に一度喧嘩でもしているのか?
「それでは、紫苑。今日のところはこれで失礼いたしますわ。」
「あ、その、ろくにおもてなしも出来ないで、ごめんね?」
「構いませんわ。それでは。雫ちゃんも、またいずれ。」
「次に会うときに、血を見ないように祈っとくんですね。」
バタン!と。
勢いよくドアが閉ざされた。
俺は、呆然と閉じられたドアを見つめていた。
……できることなら、ずっとそうしていたかったのだが。
どうやら、そうもいかないらしい。
「……………………お兄ちゃん。」
「……………………………………………………………はい。」
よく考えると超展開だよねコレ。
ある日突然彼女にせがまれて家に呼んだら、妹と彼女が決定的に決裂。
いや、むしろポピュラーなのか?
さて。
現実逃避は程ほどにして(というか現実逃避をするだけの余力もない)、現状の説明をば。
現在、俺と雫は、雫の部屋で、カーペットの上に正座して向かい合っている。
膝詰めで説教、みたいな体勢である。
「……………………。」
「……………………。」
俺と雫、双方、完全に沈黙。
雫はずっと目を閉じたまま、完璧な意味で微動だにせずに黙っている。
俺は、……………押し潰されそうだ。
この、正体不明の罪悪感に。
「…………………………s」
ギロリ。
まだ『雫』の『し』も言っていないのに、口から音を発しただけで睨まれました。
それも、ヤクザ顔負けのとんでもない眼光で。
正直言って。俺、このまま死ねます。
双方、完全に沈黙。
カチ、コチ、と。時計の音だけが部屋の中に木霊する。
罪悪感と無言の圧力によって、精神的に死にそうです。
何分が経過したのだろうか。
刹那とも思え、永遠とも思える時間が経過したその後。
「…………………ふぅー。」
雫が、溜息をついた。
俺はまだ、微動だにできずにいる。
雫が、目を開ける。
「お兄ちゃん?どうでしたか?」
「………………超堪えました。」
やっと、力を抜くことが出来た。
「お兄ちゃん。あの人と、付き合うのですか?」
「…………うん。」
「分かりました。」
え?
「ここまでの重圧を受けた今なお、考えを改めないのなら、お兄ちゃんの意思は本物なんでしょう。尊重します。」
「…………………ありが、」
「ただし。」
お礼を言おうと思った瞬間、雫が割り込んでくる。
「私は妨害しますよ。お兄ちゃんに辛く当たり、彼女に冷たくし、お兄ちゃんに可能な限りのストレスを加えます。それでも、意思は変わりませんか?」
……………。
それは、正直言って、辛い。
それをされるなら、死んだほうがマシだ。
だけどさ。
蓮華があそこまで啖呵を切って、宣戦布告とやらをしたんだ。
俺には何のことやらさっぱりだが、俺と蓮華に関わることなのは分かる。
だから。
俺は、蓮華に味方してやる。
一世一代の、戦争の幕開けだ。
「分かった。もういいよ、お兄ちゃん。お説教はこれでおしまい。」
「はぁー………………。」
俺は、ぐだーっと、力なく床に倒れこんだ。
本当に、もう、勘弁してくれ。
「晩御飯を作るから、ちょっと待っててね。」
そう言って、雫はパタパタと部屋を出て行った。
時計を見ると。
オイオイ、マジかよ。
もう、日が変わってるぞ。
俺は、六時間以上もああしてたのか。
翌日の朝。
じゃない。
その朝。
俺がこうして無事に朝を迎えているという事は、つまり昨夜は何もなかったということである。
そこまでゲーム通りに展開して欲しくはない。
まあ、つまりは。
とり合えず、無事に片がついた、ってことだ。
ひとまず命は助かった。
まあ、こうなったらあとはなるようになれだ。
俺はもう知らん。
テメェら、好きにやってろ。
でも。
この戸籍謄本は、燃やしたほうがいいよな。
こうなった以上、この事を知られたらまずいもんな。
手の中の書物を見つめながら、俺は、そんな事を考えていた。
続く
作品名:表と裏の狭間には 十二話―柊家の黄昏― 作家名:零崎