傀儡師紫苑アナザー
物悲しい灰色の空が広がっている。曇りではなく、青空が色褪せて灰色になってしまったようだ。
辺りを一周見渡すと、井戸を囲むように木造立ての廃れた家々が立ち並んでいた。どうやらここは小さな集落のようだ。
一軒の家から腰を曲げた老婆が出てきた。銀髪のぼさぼさ頭の老婆は桶を持って、井戸に向かってくる。
腰を曲げて地面ばかりを見ていた老婆が愁斗の前で顔をあげた。
「どこから来なすった?」
「道に迷って、気づいたらここに」
「外から人が来るのは、一年ぶりじゃったかのぉ?」
老婆はところどころ歯の抜けた口でにこやかに笑った。
すぐ横でケータイをいじっていた亜季菜は不機嫌そうな顔で愁斗を見つめた。
「圏外でケータイも使えないわ」
「使えたとしても使わないほうがいいですよ。繋がってはいけない場所と繋がるかもしれません」
神妙な顔つきをする愁斗の発言の意味を亜季菜は理解できなかったが、愁斗の言うことに間違いはないと思い、ケータイをポケットの中にしまい込んだ。
いつの間にか水を汲み終えていた老婆は顎をしゃくって家を示した。
「狭い家だが、わしの家で休むといい」
「ありがとうございます。その桶、僕が持ちましょう」
愁斗は老婆の申し出を受け、水の満たされた桶を老婆から受け取った。しかし、亜季菜は嫌な顔をして口を挟んだ。
「あたしは休むよりも、早く大きな町か交通量の多い通りに出たいわ。お婆さん、大きな町にはどう行ったらいいのかしら?」
「山道を十里ほど行ったところに村があるよ」
「十里……十里……四〇キロも先なの!?」
山道を四〇キロメートルも歩くなど、亜季菜は自分の体力では絶対無理だと判断した。しかも、あるのが?村?ときた。いったいどこに迷い込んでしまったのかと、亜季菜は頭を抱えた。
「亜季菜さん、この方の家で休ませてもらいましょう」
すでに愁斗は老婆について歩き出していた。今はそうするしかないと亜季菜は思い、老婆と歩く愁斗の後を追った。
そこは家と言うよりは小屋だった。雨露をしのぎ、寝泊まりに足りるだけの粗末な家床は今にも抜けそうで、障子は破れたまま放置されていた。
金持ちの亜季菜の生活水準では考えられないほどの襤褸家で、彼女は靴のまま家に上がろうとしまったくらいだ。
適当に座っておくれと老婆に言われ、二人が座った畳はささくれ立ち、服に細かいごみが付き、少し脚がチクチクする。
落ち着かないようすの亜季菜は辺りを見渡しながら、襖の奥から人が咳き込むような音がするのに気が付いた。
「病人がいるのかしら?」
「わしの孫娘じゃよ。昔から身体が弱くてね、いつも床に伏しておる」
襖がゆっくりと開き、蒼白い顔をした着物を来た娘が顔を出した。
「お客様かしら?」
長く美しい黒髪を腰まで垂らし、端整な顔立ちをした娘の声は少しか細い。しかし、その体つきは若さに相応しく、着物から除く白い脚はもち肌で、少しはだけた襟首から除く胸も大きな膨らみを備えていた。
娘は愁斗たちの前まで来ると、正座をして深く頭を下げた。
「私はこの家の娘で、お紗代[サヨ]と申します」
相手のあまりに畏まった態度に、亜季菜は背筋を伸ばしてしまった。
「あたしは亜季菜、こっちは弟の愁斗よ」
亜季菜から愁斗に視線を移したお紗代の頬に、ほんのりと赤みが差した。
にこやかに微笑むお紗代は、亜季菜ではなく愁斗に話しかけた。
「しばらくここに滞在するのですか?」
「いいえ、できれば早くここから一〇里離れてるという村に行きたいのですが。姉もそれを望んでいます」
「そうですか……。ですが、今から村に向かったのでは、夜の山道を通ることになってしまいます。今日はどうぞこの家でゆっくり休まれて、明日の早朝にお出かけください」
「そうさせていただきます」
愁斗は軽く頭を下げて亜季菜に視線を送った。やはり亜季菜は嫌な顔をしている。彼女はこの家に泊まるのも嫌だし、山道を約四〇キロも歩くのも嫌だった。
とは言っても、この集落にある家はどれも同じで、亜季菜を満足させる家はないだろう。それに、交通手段があるとは思えないこの場所では、歩かなければ山を越えられないのも明白だった。
「最悪だわ」
小さく呟いた亜季菜はすっと立ち上がった。
「少し外を歩いてくるわ」
「僕も行きます」
外に出ようとする亜季菜の腕を掴み、愁斗の同行することにした。
家を出ると、先ほどより辺りが暗くなっていた。空は依然として灰色で、朝なのか昼なのか夕方なのか、まったく区別がつかない。お紗代の話からすると、夜が近いらしいが、灰色の空からはそれを察することはできない。
「あたしあの家に泊まるなんてまっぴらごめんよ」
吐き捨てるように言う亜季菜に対して、愁斗は淡々としていた。
「じゃあ、村まで歩きますか? もうすぐ夜が訪れるらしいですが」
愁斗が空を見上げると、灰色が少し暗くなっているようだった。やはり夜が来るのかもしれない。
「歩くのは嫌よ。でもここにいるのも嫌」
「わがままですね。でも、いつかはここを出なくてはいけない。とは言っても山道に出たら最期かもしれません」
「どういう意味よ?」
「一〇里先に村などないかもしれないという意味です」
「あの人たちが嘘をついてるってこと?」
愁斗が次の言葉を発するまでに少し時間があった。
「――ここは僕たちの住むべき世界ではないかもしれません。僕たちは異世界に迷い込んだのかもしれない」
「そんな……」
――莫迦な、と言おうとして亜季菜は口を噤んだ。
現実と呼ばれる世界を生きている者としては、異世界という存在はにわかに受け入れがたい。いや、本来は受け入れてはいけないのかもしれない。魔導に通じる愁斗と関わりを持ってしまってはいるが、亜季菜はまだ人間なのだ。
亜季菜はたまに思う。目の前にいる青年は人間ではない存在なのかもしれない。
「亜季菜さん」
「なに?」
呼びかけによって愁斗をぼんやりみていた亜季菜の意識が戻された。
「亜季菜さんのジャケットに蜘蛛がついてますよ」
「ヤダ、取ってよ。愁斗ほら早く払ってちょうだい」
身体を振り乱して慌てる亜季菜の前に立った愁斗は、ジャケットについている蜘蛛を片手でさっと払った。
糸を引きながらジャケットから落ちる蜘蛛は、ふわりふわりと地面に降りた。そこへ赤いヒールが叩きつけられた。
「ぎゃぁぁぁぁぁっ!!」
それは亜季菜が蜘蛛を踏み潰したのと同時だった。
耳を塞ぎたくなるような苦悶に満ちた叫び声。
「お紗代さんの家ですね」
走り出した愁斗を追おうと亜季菜は、蜘蛛を潰したヒールを地面にすり合わせ走り出そうとした。しかし、その脚は止まってしまった。
民家から顔を出す人影。ひとつ、ふたつ、みっつ――村中の人々が民家から顔を出したそして、みな亜季菜を見ているのだ。無表情な瞳で。
怖くなった亜季菜は全速力で愁斗の後を追った。
まず愁斗が家に駆け込み足を止めた。
すぐ後ろを追ってきた亜季菜も、家に入ったとたん顔を真っ青にして足を止めてしまった。
「なによ、これ……?」
どうやって死んだら、人はこんな恐ろしい表情をできるのだろうか?
作品名:傀儡師紫苑アナザー 作家名:秋月あきら(秋月瑛)