後ろ姿の少年に2
【祖母】
それにしても、とわたしは思った。ひとつだけおかしなことがある。我が家には、わたし以外本当に男はいないのだろうか。
いいや、そんなことはない、ちゃんともう一人いるではないか。
「うちにも、もうひとり男がいるよ」
わたしが言うと母はびっくりして振り返った。リヤカーの荷台から、引いている母に声をかけたのである。母はリヤカーを止めてわたしの顔を不思議そうに覗き込んだ。
「いったい誰だい」
わたしはびっくりしている母の様子に一瞬たじろぎはしたものの、それでも気を取り直して、後ろから少し遅れてついて来る祖母の姿に目をやりながらはっきりとこう言った。
「ばあちゃん!」
「ええっ何だって?ばあちゃんだって?」母はまたびっくりした。しかしすぐに大声をだして笑い出した。
「アハハハハハ。何を言うのかと思ったらこの子は。ばあちゃんが男だって?アハハハハハ」
ちょうどそこへ後ろから祖母が追いついた。その祖母に母が声をかけた。
「ばあちゃん、ばあちゃん。まなぶがね、ばあちゃんのこと、男だって」
「なんで、おれが男のわけがあろうかい」
「男だよ。だって今も『おれ』って言ったじゃないか。『おれ』は男が使うことばだぞ」
わたしは真剣だった。だって、ここで大人の男が見つかれば母ちゃんの苦労もなくなるじゃないか。だから、母が笑っているのがいっそう憎らしかった。
「ハハハハ、まなぶ。ばあちゃんは男じゃない、女だよ。自分のことを『おれ』って言うけど、ばあちゃんの時代は男も女もみんな『おれ』って言ったんだ」
「ちがわーい。男だい」
「おれは男じゃねえ、女だ」と祖母は片手で腰をとんとんたたきながら言った。
「ちがわーい。男だい。だって、ズボンをはいてるじゃないか」
母と祖母はとうとう吹き出した。
「ばあちゃんがはいているのはズボンじゃないよ。モンペといって、女のはくものさ。ほら、母さんだってはいているだろ」
「うそだーい。ばあちゃんのは母ちゃんのと違うよ。僕とおんなじだ。だからズボンだい」
わたしはことごとく反論されて泣きそうになっていた。母と祖母は顔を見合わせた。だが、今度は笑わなかった。
「そうかい。ばあちゃんのはズボンかい。ズボンをはいているから、ばあちゃんは男なんだね?」母は優しく言った。
「そうだよ」
「なるほどなあ、そうかもしれねえなあ、おれは男だったのかい」
「そうだよ」わたしはきっぱりと言った。
「うん、そうか、そうか、おれは男か。じゃあ、男同士、仲良くすべえな」
「うん」
わたしは祖母のことばにすっかり気をよくした。だから自分が何でこんな話をしたのかさえいつの間にか忘れてしまっていた。
ところで、わたしが祖母を男だと思っていた理由は、実はまだもうひとつある。
祖母は怒ると限りなく恐いのである。
わたしが子供の頃、家で恐れるべきはまず男親であった。男親の怒る姿はそれが自分の親でなくてもひどく怖かった。わたしは心の中で、男は恐いものだ、恐ければそれは男に違いない、と固く思い込んでしまい、だから男親のいなかった家にもかかわらず、怒涛のごとく荒れ狂う祖母の姿を男と信じてつゆ疑わなかったのである。
ある晩こんなことがあった。
どこからか騒々しく、どしん、ばたんと、音が響いて来る。わたしは変に思って起き上がり、あたりを眺めまわした。部屋には明かりがついて障子の隙間から外の闇が流れ込んでいる。どうも夜らしい。眠い目をこらすと、明かりの向こうで人がもみ合っている様子だ。どしん、ばたんは、たしかにそこから聞こえて来る。ところが眠気でぼうっとなったわたしの頭になかなか事態が飲み込めない。それでもどうにか、晩ごはんを食べているうちに意識が妙に遠のいたことを思い出した。わたしはもう一度目をこらした。
祖母と母と、それから姉がなんだかもめているらしい。
「はなせ!はなせ!」と姉が叫んでいる。
「おめえみてえなやつは、うちの子じゃねえ。外におっぽり出してやる」
祖母は姉の片手をつかんで外に引きずり出そうとしている。姉は足を踏ん張り、もう一方の手で柱にしがみつき必死に抵抗している。
「いやだ!いやだあ!」姉は大声を上げて泣いている。母がそばではらはらしながら
「早くばあちゃんに謝るんだよ」
「いやだ!いやだあ!」
もはや姉に母のことばはとどかなかった。姉は大声を上げて泣きながらも外に放り出されまいと必死に柱にしがみついている。その姉を祖母は柱から引き離そうと腰のあたりに手をかけて容赦なく引っ張り続ける。もう見てはいられない。
わたしは立ち上って、すぐ脇にあったライフル鉄砲の筒先を両手でつかみ、猛然と突き進んだ。もちろん、鉄砲はブリキ製のおもちゃである。だがけっこうしっかりとできていた。
「いてえ!なにすんだ!」
「まなぶ!おまえ・・・」母が息を飲みこんだ。
そうなのだ。わたしはライフル鉄砲の固い台尻で祖母の腰をいやというほど殴っていた。祖母が振り返ってわたしが犯人だと分かったときの顔は、今でも決して忘れることができない。怒りにゆがんだ、青ざめた悲しい顔。
祖母はわたしから鉄砲をひったくった。
「こんなもん買ってやるから、まなぶが悪くなんだ!」そう言って、その場で枯れ木でも折るように、ひざで鉄砲を折り曲げてしまった。その怒りのあまりの激しさにわたしはそのあと自分が何をしたかも思い出せない。
わたしは絶対にしてはいけない何かをしてしまったのだ。そのことだけはわかった。だが、それからのことはわたしの記憶から完全に欠落している。姉がどうなったのかさえ分からない。わたしの記憶はまるで凍りついてしまったかのようにそこで停止している。
祖母は、鉄砲を折り曲げはしたけれど直接わたしを怒ろうとはしなかった。そのかわり鉄砲は曲がったままわたしの手の届かない居間の梁(はり)にかけられた。わたしは鉄砲をうらめしそうにみあげながら毎日幾度となくその下を行き来した。しばらくしてわたしはあることに気がついた。
鉄砲が曲がっていないではないか!
たしかにあのとき祖母は鉄砲を曲げたのだ。それが曲がっていない。わたしにはそのことが奇妙で不思議でまるで狐にでもつままれたような気がした。
鉄砲はその後も梁にかかったままわたしを見下ろしていた。わたしは幾分後ろめたい気持ちを抱きながら、ときどきうらめしそうに鉄砲を見上げて暮らした。そのうちわたしは鉄砲を見上げることを忘れるようになった。そうして鉄砲はいつしかわたしの頭の中から消えていった。
だが、わたしが祖母にしたことはなかなか消えていかなかった。
それにしても、とわたしは思った。ひとつだけおかしなことがある。我が家には、わたし以外本当に男はいないのだろうか。
いいや、そんなことはない、ちゃんともう一人いるではないか。
「うちにも、もうひとり男がいるよ」
わたしが言うと母はびっくりして振り返った。リヤカーの荷台から、引いている母に声をかけたのである。母はリヤカーを止めてわたしの顔を不思議そうに覗き込んだ。
「いったい誰だい」
わたしはびっくりしている母の様子に一瞬たじろぎはしたものの、それでも気を取り直して、後ろから少し遅れてついて来る祖母の姿に目をやりながらはっきりとこう言った。
「ばあちゃん!」
「ええっ何だって?ばあちゃんだって?」母はまたびっくりした。しかしすぐに大声をだして笑い出した。
「アハハハハハ。何を言うのかと思ったらこの子は。ばあちゃんが男だって?アハハハハハ」
ちょうどそこへ後ろから祖母が追いついた。その祖母に母が声をかけた。
「ばあちゃん、ばあちゃん。まなぶがね、ばあちゃんのこと、男だって」
「なんで、おれが男のわけがあろうかい」
「男だよ。だって今も『おれ』って言ったじゃないか。『おれ』は男が使うことばだぞ」
わたしは真剣だった。だって、ここで大人の男が見つかれば母ちゃんの苦労もなくなるじゃないか。だから、母が笑っているのがいっそう憎らしかった。
「ハハハハ、まなぶ。ばあちゃんは男じゃない、女だよ。自分のことを『おれ』って言うけど、ばあちゃんの時代は男も女もみんな『おれ』って言ったんだ」
「ちがわーい。男だい」
「おれは男じゃねえ、女だ」と祖母は片手で腰をとんとんたたきながら言った。
「ちがわーい。男だい。だって、ズボンをはいてるじゃないか」
母と祖母はとうとう吹き出した。
「ばあちゃんがはいているのはズボンじゃないよ。モンペといって、女のはくものさ。ほら、母さんだってはいているだろ」
「うそだーい。ばあちゃんのは母ちゃんのと違うよ。僕とおんなじだ。だからズボンだい」
わたしはことごとく反論されて泣きそうになっていた。母と祖母は顔を見合わせた。だが、今度は笑わなかった。
「そうかい。ばあちゃんのはズボンかい。ズボンをはいているから、ばあちゃんは男なんだね?」母は優しく言った。
「そうだよ」
「なるほどなあ、そうかもしれねえなあ、おれは男だったのかい」
「そうだよ」わたしはきっぱりと言った。
「うん、そうか、そうか、おれは男か。じゃあ、男同士、仲良くすべえな」
「うん」
わたしは祖母のことばにすっかり気をよくした。だから自分が何でこんな話をしたのかさえいつの間にか忘れてしまっていた。
ところで、わたしが祖母を男だと思っていた理由は、実はまだもうひとつある。
祖母は怒ると限りなく恐いのである。
わたしが子供の頃、家で恐れるべきはまず男親であった。男親の怒る姿はそれが自分の親でなくてもひどく怖かった。わたしは心の中で、男は恐いものだ、恐ければそれは男に違いない、と固く思い込んでしまい、だから男親のいなかった家にもかかわらず、怒涛のごとく荒れ狂う祖母の姿を男と信じてつゆ疑わなかったのである。
ある晩こんなことがあった。
どこからか騒々しく、どしん、ばたんと、音が響いて来る。わたしは変に思って起き上がり、あたりを眺めまわした。部屋には明かりがついて障子の隙間から外の闇が流れ込んでいる。どうも夜らしい。眠い目をこらすと、明かりの向こうで人がもみ合っている様子だ。どしん、ばたんは、たしかにそこから聞こえて来る。ところが眠気でぼうっとなったわたしの頭になかなか事態が飲み込めない。それでもどうにか、晩ごはんを食べているうちに意識が妙に遠のいたことを思い出した。わたしはもう一度目をこらした。
祖母と母と、それから姉がなんだかもめているらしい。
「はなせ!はなせ!」と姉が叫んでいる。
「おめえみてえなやつは、うちの子じゃねえ。外におっぽり出してやる」
祖母は姉の片手をつかんで外に引きずり出そうとしている。姉は足を踏ん張り、もう一方の手で柱にしがみつき必死に抵抗している。
「いやだ!いやだあ!」姉は大声を上げて泣いている。母がそばではらはらしながら
「早くばあちゃんに謝るんだよ」
「いやだ!いやだあ!」
もはや姉に母のことばはとどかなかった。姉は大声を上げて泣きながらも外に放り出されまいと必死に柱にしがみついている。その姉を祖母は柱から引き離そうと腰のあたりに手をかけて容赦なく引っ張り続ける。もう見てはいられない。
わたしは立ち上って、すぐ脇にあったライフル鉄砲の筒先を両手でつかみ、猛然と突き進んだ。もちろん、鉄砲はブリキ製のおもちゃである。だがけっこうしっかりとできていた。
「いてえ!なにすんだ!」
「まなぶ!おまえ・・・」母が息を飲みこんだ。
そうなのだ。わたしはライフル鉄砲の固い台尻で祖母の腰をいやというほど殴っていた。祖母が振り返ってわたしが犯人だと分かったときの顔は、今でも決して忘れることができない。怒りにゆがんだ、青ざめた悲しい顔。
祖母はわたしから鉄砲をひったくった。
「こんなもん買ってやるから、まなぶが悪くなんだ!」そう言って、その場で枯れ木でも折るように、ひざで鉄砲を折り曲げてしまった。その怒りのあまりの激しさにわたしはそのあと自分が何をしたかも思い出せない。
わたしは絶対にしてはいけない何かをしてしまったのだ。そのことだけはわかった。だが、それからのことはわたしの記憶から完全に欠落している。姉がどうなったのかさえ分からない。わたしの記憶はまるで凍りついてしまったかのようにそこで停止している。
祖母は、鉄砲を折り曲げはしたけれど直接わたしを怒ろうとはしなかった。そのかわり鉄砲は曲がったままわたしの手の届かない居間の梁(はり)にかけられた。わたしは鉄砲をうらめしそうにみあげながら毎日幾度となくその下を行き来した。しばらくしてわたしはあることに気がついた。
鉄砲が曲がっていないではないか!
たしかにあのとき祖母は鉄砲を曲げたのだ。それが曲がっていない。わたしにはそのことが奇妙で不思議でまるで狐にでもつままれたような気がした。
鉄砲はその後も梁にかかったままわたしを見下ろしていた。わたしは幾分後ろめたい気持ちを抱きながら、ときどきうらめしそうに鉄砲を見上げて暮らした。そのうちわたしは鉄砲を見上げることを忘れるようになった。そうして鉄砲はいつしかわたしの頭の中から消えていった。
だが、わたしが祖母にしたことはなかなか消えていかなかった。