「愛されたい」 第一章 結婚記念日
-----第1章 結婚記念日-----
平成9年11月1日土曜日、明日から下呂(げろ)温泉への一泊二日の旅行に出かける準備を智子はしていた。今年結婚して20年目になる。その節目として娘にも後押しされて夫と二人で記念旅行をするのだ。「もう20年か・・・早いものだな」夫の伸一はそう呟く。
智子は大学を卒業して就職した時に仲良くしていた同級生の中野敏子が話していたことを思い出した。
「ねえ、智子はどんな人と結婚したいの?」
「どんなって・・・誠実で明るい人かな」
「それだけでいいの?収入とか、身長とか・・・もっと大切なことがあるでしょ」
「そんな事を言っていたら、結婚なんてずっと出来ないかも知れないよ」
「私は、そこそこの収入があって、次男なら他は我慢するわ」
「それって玉の輿に乗りたいっていう事?」
「なんと言っても結婚して幸せになれることの半分はお金だからね。後の半分は健康と子宝かしら」
「敏子は勝手がいいのね。旦那さんになる人が可愛そう」
「なんで可愛そうなの?こんな美人と一緒になれるのに」
「よく言うわよね・・・自信家ね。確かに、私なんかよりはいけてるのかも知れないけど、余り自信過剰になると痛い目にあうよ」
「カッコいい人選んで、愛情が一番なんて強がり言って一生惨めな生活をするのは嫌だから、そういうのよ。恋愛の延長じゃないからね・・・まあ、女したくなったらその時に考えるし」
「何という事言ってるの!今は若いからそう言えるけど、結婚して子供育ててあっという間に老けてしまって、誰も振り向いてなんかくれなくなるよ・・・きっと」
「先の心配するのね、智子は。そういえば彼氏どうしたの?別れたの?」
「うん、彼サービス業に就職したから逢える時間が合わなくなって・・・もうしばらく連絡もないの」
「そうだったの・・・淋しいね。仕事が忙しいのは仕方ないよ。智子は可愛いし、いい所のお嬢さんだから、直ぐに新しい彼が見つかるよ」
「褒めてくれてありがとう・・・今度は素敵な恋がして見たいなあ」
「それは夢だけにしないと無理かもよ。現実は生活なんだから。悠々自適に専業主婦やって優雅に暮らしたいわ・・・」
「甘いんじゃないの?」
「選ばなきゃ叶えられるわよ、智子だって・・・そうしなさいって、今のうちに遊んで結婚は割り切ってする!だからね」
結婚は割り切ってする、そう話していた敏子は望み通り、社長夫人になっていた。
何年ぶりに夫の伸一と出かけることだろう。新婚旅行でハワイに行って、子供が出来てからは二三度ディズニーに行ったぐらい。二人で泊りがけなんて多分結婚してから初めてになる。娘に家を任せて二日の日曜日朝早くバス乗り場に向かうため家を出た。
ツアー客の多くは同じか少し上の世代の夫婦が殆どだった。中ほどの席に座って窓の外をぼんやりと眺めながら、バスは高速道路を中津川(岐阜県中津川市)に向かって走行していた。隣で夫は眠っている。朝早く起きたので睡魔が襲ったのだろう。楽しいはずの旅行の出発がこれじゃ、先が思いやられると智子は感じた。
高速のインターを降りて休憩のため道の駅にバスは立ち寄った。
「あなた!トイレ休憩よ。起きて下さいね」
「そうか・・・おれも行くか」
仲の良い夫婦は手を繋いでバスから歩いてゆく。三連休の中日とあってたくさんの観光バスと家族連れのマイカーが停車していた。若いカップルは殆ど手を繋いでいる。子供が小さい夫婦は三人で手を繋ぎ合わせている。じっとそんな光景を見ながら、智子は自分にはそうした行為が夫とはなかったことを淋しく感じた。
「結婚して毎日過ごしていれば自然と仲良くなってゆくものよ。夫婦って言うものは」
母がそう言ってくれた言葉に後押しされて、智子は伸一との結婚を決めた。大学時代に好きだった彼と別れて淋しさを紛らわすかのように付き合い始めた人、楠本伸一は智子にとってワクワクする相手ではなく気を遣わないで交際出来るまじめで物静かな県庁に勤める公務員であった。
「公務員がいいわよ。収入も安定しているし、休みだってきちんとしているし」
敏子にもそう言われて、それほど好きになれなかった相手と結婚したことを少しずつ後悔し始めていた。
夫は彼女と付き合ったことがないらしく、女性への気遣いがゼロに等しかった。そんな人だったが、ただ一つ智子の親を大切に考えてくれるところは嬉しかった。誕生日や母の日、父の日などには必ず食事を共にしてプレゼントを渡してくれていた。交際中からそんな気遣いをしてくれていた夫を「いい人ね」と母も父も気に入ってくれていた。
式を挙げるまで身体に手を触れなかった伸一に一抹の不安を覚えながら迎えた新婚初夜、智子の不安は的中した。
それでも子供は授かった。長女は19歳になる大学生。長男は17歳になる高校生。共に誰に似たのか活発で元気な性格だった。子育てに夢中の10年間ぐらいは気にもならなかった夫婦生活も息子が中学に入る頃から完全になくなってしまった。仕事が激務で疲れているのではない。まして、精神的なストレスを溜め込んでいるとも思えない夫は、ただ無関心なだけであった。
一度智子は自分から求めたことがあった。そのときに夫が言った言葉を忘れられない。
「お前は・・・淫乱か?」
一年間も何もしないでよくそんな言葉が言えると悲しくなった。
「ずっとなかったのに何故そんなこと言うの?」そう返事すると、
「子供が大きくなった夫婦なんてそんなことしないんだよ、もう。役所の奴らもみんなそう言ってるぞ。お前は何考えているんだ?」
言い返せなかった。無駄だと思ったからだ。
我慢も限界を越すと忘れてしまう。他にも我慢していることはあったけれど、いまさら揉めることでも無いと自分に言い聞かせて、過ごしてきた。
今度の泊りでの旅行はひょっとして気分が変わって夫が求めてくるかも知れないと、心ひそかに期待はしていた。そうならないと、もう最後だと思えたからだ。
名古屋の大手食品加工会社に勤める横井行雄は会社が毎年行っているパート勤務の従業員対象研修会の準備に追われていた。日頃の仕事に感謝をすることと、従業員同士の親睦を深めることが目的になっていた。今年42歳になる行雄はパートの女性従業員から慕われていた。面倒見の良さに加えて、ルックスも良かったからである。何度か複数の従業員と噂になったこともあった。真相は誰も知らなかったが、今は独身なので人気が衰えることは無かった。
百人を超えるパート勤務の従業員全員で出かけることはラインを止めることになるので不可能だから、担当者を分けて3班でそれぞれに日にちを変えて企画した。1班の出発日が11月2日、2班が翌週土曜日、3班が翌々週土曜日と決まった。行雄は1班と3班に同行する。会社の駐車場から約40人を乗せた観光バスは、目的地下呂温泉を目指して出発した。バスの中は大変な騒ぎになっていた。男性は行雄一人で残りは全員女性だったからである。
平成9年11月1日土曜日、明日から下呂(げろ)温泉への一泊二日の旅行に出かける準備を智子はしていた。今年結婚して20年目になる。その節目として娘にも後押しされて夫と二人で記念旅行をするのだ。「もう20年か・・・早いものだな」夫の伸一はそう呟く。
智子は大学を卒業して就職した時に仲良くしていた同級生の中野敏子が話していたことを思い出した。
「ねえ、智子はどんな人と結婚したいの?」
「どんなって・・・誠実で明るい人かな」
「それだけでいいの?収入とか、身長とか・・・もっと大切なことがあるでしょ」
「そんな事を言っていたら、結婚なんてずっと出来ないかも知れないよ」
「私は、そこそこの収入があって、次男なら他は我慢するわ」
「それって玉の輿に乗りたいっていう事?」
「なんと言っても結婚して幸せになれることの半分はお金だからね。後の半分は健康と子宝かしら」
「敏子は勝手がいいのね。旦那さんになる人が可愛そう」
「なんで可愛そうなの?こんな美人と一緒になれるのに」
「よく言うわよね・・・自信家ね。確かに、私なんかよりはいけてるのかも知れないけど、余り自信過剰になると痛い目にあうよ」
「カッコいい人選んで、愛情が一番なんて強がり言って一生惨めな生活をするのは嫌だから、そういうのよ。恋愛の延長じゃないからね・・・まあ、女したくなったらその時に考えるし」
「何という事言ってるの!今は若いからそう言えるけど、結婚して子供育ててあっという間に老けてしまって、誰も振り向いてなんかくれなくなるよ・・・きっと」
「先の心配するのね、智子は。そういえば彼氏どうしたの?別れたの?」
「うん、彼サービス業に就職したから逢える時間が合わなくなって・・・もうしばらく連絡もないの」
「そうだったの・・・淋しいね。仕事が忙しいのは仕方ないよ。智子は可愛いし、いい所のお嬢さんだから、直ぐに新しい彼が見つかるよ」
「褒めてくれてありがとう・・・今度は素敵な恋がして見たいなあ」
「それは夢だけにしないと無理かもよ。現実は生活なんだから。悠々自適に専業主婦やって優雅に暮らしたいわ・・・」
「甘いんじゃないの?」
「選ばなきゃ叶えられるわよ、智子だって・・・そうしなさいって、今のうちに遊んで結婚は割り切ってする!だからね」
結婚は割り切ってする、そう話していた敏子は望み通り、社長夫人になっていた。
何年ぶりに夫の伸一と出かけることだろう。新婚旅行でハワイに行って、子供が出来てからは二三度ディズニーに行ったぐらい。二人で泊りがけなんて多分結婚してから初めてになる。娘に家を任せて二日の日曜日朝早くバス乗り場に向かうため家を出た。
ツアー客の多くは同じか少し上の世代の夫婦が殆どだった。中ほどの席に座って窓の外をぼんやりと眺めながら、バスは高速道路を中津川(岐阜県中津川市)に向かって走行していた。隣で夫は眠っている。朝早く起きたので睡魔が襲ったのだろう。楽しいはずの旅行の出発がこれじゃ、先が思いやられると智子は感じた。
高速のインターを降りて休憩のため道の駅にバスは立ち寄った。
「あなた!トイレ休憩よ。起きて下さいね」
「そうか・・・おれも行くか」
仲の良い夫婦は手を繋いでバスから歩いてゆく。三連休の中日とあってたくさんの観光バスと家族連れのマイカーが停車していた。若いカップルは殆ど手を繋いでいる。子供が小さい夫婦は三人で手を繋ぎ合わせている。じっとそんな光景を見ながら、智子は自分にはそうした行為が夫とはなかったことを淋しく感じた。
「結婚して毎日過ごしていれば自然と仲良くなってゆくものよ。夫婦って言うものは」
母がそう言ってくれた言葉に後押しされて、智子は伸一との結婚を決めた。大学時代に好きだった彼と別れて淋しさを紛らわすかのように付き合い始めた人、楠本伸一は智子にとってワクワクする相手ではなく気を遣わないで交際出来るまじめで物静かな県庁に勤める公務員であった。
「公務員がいいわよ。収入も安定しているし、休みだってきちんとしているし」
敏子にもそう言われて、それほど好きになれなかった相手と結婚したことを少しずつ後悔し始めていた。
夫は彼女と付き合ったことがないらしく、女性への気遣いがゼロに等しかった。そんな人だったが、ただ一つ智子の親を大切に考えてくれるところは嬉しかった。誕生日や母の日、父の日などには必ず食事を共にしてプレゼントを渡してくれていた。交際中からそんな気遣いをしてくれていた夫を「いい人ね」と母も父も気に入ってくれていた。
式を挙げるまで身体に手を触れなかった伸一に一抹の不安を覚えながら迎えた新婚初夜、智子の不安は的中した。
それでも子供は授かった。長女は19歳になる大学生。長男は17歳になる高校生。共に誰に似たのか活発で元気な性格だった。子育てに夢中の10年間ぐらいは気にもならなかった夫婦生活も息子が中学に入る頃から完全になくなってしまった。仕事が激務で疲れているのではない。まして、精神的なストレスを溜め込んでいるとも思えない夫は、ただ無関心なだけであった。
一度智子は自分から求めたことがあった。そのときに夫が言った言葉を忘れられない。
「お前は・・・淫乱か?」
一年間も何もしないでよくそんな言葉が言えると悲しくなった。
「ずっとなかったのに何故そんなこと言うの?」そう返事すると、
「子供が大きくなった夫婦なんてそんなことしないんだよ、もう。役所の奴らもみんなそう言ってるぞ。お前は何考えているんだ?」
言い返せなかった。無駄だと思ったからだ。
我慢も限界を越すと忘れてしまう。他にも我慢していることはあったけれど、いまさら揉めることでも無いと自分に言い聞かせて、過ごしてきた。
今度の泊りでの旅行はひょっとして気分が変わって夫が求めてくるかも知れないと、心ひそかに期待はしていた。そうならないと、もう最後だと思えたからだ。
名古屋の大手食品加工会社に勤める横井行雄は会社が毎年行っているパート勤務の従業員対象研修会の準備に追われていた。日頃の仕事に感謝をすることと、従業員同士の親睦を深めることが目的になっていた。今年42歳になる行雄はパートの女性従業員から慕われていた。面倒見の良さに加えて、ルックスも良かったからである。何度か複数の従業員と噂になったこともあった。真相は誰も知らなかったが、今は独身なので人気が衰えることは無かった。
百人を超えるパート勤務の従業員全員で出かけることはラインを止めることになるので不可能だから、担当者を分けて3班でそれぞれに日にちを変えて企画した。1班の出発日が11月2日、2班が翌週土曜日、3班が翌々週土曜日と決まった。行雄は1班と3班に同行する。会社の駐車場から約40人を乗せた観光バスは、目的地下呂温泉を目指して出発した。バスの中は大変な騒ぎになっていた。男性は行雄一人で残りは全員女性だったからである。
作品名:「愛されたい」 第一章 結婚記念日 作家名:てっしゅう