フライングマン
その質問に高松は落ち着いてひと呼吸し、はっきりとこう答えた。
「皆さん、僕は今まで走ることにのみ集中してきました。フライングなんてなるべくないほうがいいと思っていた。しかし、フライングの数は増えていく一方です。スポーツファンは皆、不信がっている。しかし僕は彼らのすぐそばでフライングを見てきました。皆さん、フライングをようく見たことはありますか? 最近、僕のタイムが伸び悩んでいることは皆さんご承知ですね。それは僕がフライングに心乱されていたのではなく、フライングに集中していたからです」
「と、言いますと?」
記者の一人が尋ねた。高松はすっくと立ち上がって両手を上げた。
「フライングマンばんざい! こんなに心打たれるスポーツはない! フライングはバクハツだあ―――!」
「…………」
会場は静まり返った。そしてその沈黙を破るかのように、さっきの記者がもう一度尋ねた。
「ということは、フライングはわざと行われていると……?」
高松はバンザイをしたまま記者を見た。
「……………………あ」
その瞬間、カメラのフラッシュが一斉にたかれた。
「あーあ、最近のスポーツはつまんないなあ~」
学校帰り、信良は杉田にぼやいた。
「しょうがないじゃん。高松のアホがばらしちゃったんだからさ」
眼鏡の光を鈍らせ、杉田ははあ~っと溜息をついた。
「だーれもフライングしなくなっちゃったもんね」
「ああ、相当気をつけてるな」
とぼとぼと歩く二人の影が悲しく伸びる。
「僕たち運動オンチの人間が楽しめるスポーツなんてもうないのかな」
「さあねえ~」
しょんぼりと落ちる肩は、その胸の空白を物語っていた。
「また陸上あるけど、うち来る?」
「もういいよ」
信良の誘いを杉田は手を振って断った。
「でも高松が出るらしいよ」
「あいつか」
世の中からフライングを全滅させた張本人である。二人はギラリと目を合わせた。
「のうのうと優勝しやがったらさ。高松の会社に苦情を言ってやろうぜ」
「そうだな」
杉田はまたその日に信良宅にお邪魔することになった。
そして大会当日の日曜日。二人はテレビの前に陣取った。
「さあ、始まります、いよいよ決勝です。この大会でも優勝候補高松が登場します」
信良と杉田は高松一人に憎しみの視線を送った。決して勝利させたくないという怨念である。
「さあ、優勝は誰の手に! 高松か、浜崎か、それとも山本か!」
「ようい!」
ピストルが構えられた。観客は息を呑んだ。
「パアン!」
コンマ一秒、早く飛び出したのは高松だった。
「おおっと、フライングです! 高松、フライングです!」
選手たちは元の位置に戻り始めた。しかしここでおかしなことが起こった。フライングしたはずの高松はそのまま走り続けたのである。
「フライングばんざい! フライングマンばんざ―――い!」
高松はものすごいスピードで走った。すると周りにいた観客が「おおおお…………」という声を上げたのである。
「フライングなくしてスポーツな―――し!」
高松は叫び続けた。すると、どよめいた観客は歓声を上げ、ついにはスタンディングオベーションになったのである。そして高松は爽やかにゴールテープを切った。
「こ、これは一体どうしたことでしょう!」
司会者の驚きに、隣にいた解説の藤沢はこう言った。
「これが本来のスポーツのあり方ということでしょうな。皆、待っていたんですよ、フライングを。そう、皆、待っていたんだ……」
藤沢は涙ぐんだ。信良と杉田はわけが分からなかった。フライングを待っていた? どういうことだ。藤沢は続けた。
「本来、フライングというのは一秒でも速く走りたい、泳ぎたい、ゴールしたいという意気込みの表れなんです。決して悪いことじゃあないんだ。誰もフライングせず、慎重にスタートを切るなんてつまらない勝負だと思いませんか?」
邪な考えばかり持っていた信良と杉田は、この解説者によって初めてそれが純粋な行為だということに気づかされた気分だった。そうだ。そうなのだ。フライングというのはそういうものだったのだ。
司会者は尋ねた。
「じゃあ、この場合、高松は……」
藤沢は大きくうなずいてこう答えた。
「きっと、罰せられないでしょう。観衆は彼の中に、本物の『フライングマン』を見たから」
「チ……」
解説者の言葉を聞いた信良は舌打ちをした。
「チ……」
杉田も続いて舌を打った。
「本物の、だって……」
「本物の、らしいな……」
信良と杉田はテレビを消して立ち上がった。
合図を待てずに飛び出してしまうその気持ち。二人の中にうずうずした感情が芽生えた。
「ちくしょう、かっこいいじゃねえか―――!」
信良は叫んだ。
「だからスポーツなんて嫌いなんだ―――!」
杉田も叫んだ。
知りたい。そんな気持ち。僕たち運動オンチの人間でも!
「うおおおお―――!」
信良は家の外に飛び出した。杉田もそれに続いた。
「いくぞ―――!」
「お―――!」
ギリギリで青に変わるか変わらないかの手前で、二人は横断歩道に飛び出した。そして全力でそこを渡りきった。
信良は爽やかな顔で拳を握り締めた。
「それとこれとは同じかなっ!」
杉田も一筋の汗を流して笑った。
「関係ないなっ! 基本的になっ!」
それでも二人は青春を謳歌し始めたのである。彼らが目指すのは『第二の高松』であった。