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あおぞら

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 フィルムのように薄い冬の陽を更に覆って、雲がびゅうと流れて行くのが見えた。
 灰色の空を反射しても余りあるほどに濁った水面が北風に煽られて、ぴちゃぴちゃと鳴る音が耳に届く。
 真冬のプールサイドに黒のコートの襟を立てて一人で佇む、という絵は傍から見ても相当寒々しいだろうな、と宮沢高泰は思わずくすりと笑った。
 零れた吐息が、北風に吹き散らかされて一息で空気に解けた。
 この年の瀬の、あと数日で新年を迎えるような日に俺は一体何をしているのだろう、と思う。
 クリスマスもとうに過ぎ、街をつつむ中途半端な喧騒も、住宅地の真っただ中にあるこの高校には届かない。スイミングスクールも市民プールも、こんな時期には軒並み大掃除で入れないからと言って、こんな場所にわざわざ足を運んでしまう高校生がこの日本にどれだけいるのだろう。
 寒さに身を震わせて、一人水面を眺めるような人間が一体、どれだけ。
 少なくとも、宮沢の知り合いにそんな人間はいない。
 そんな奴がそうそういてたまるものか、という勝手な独占欲もある。自分がこの場所に抱いている思いは、他の誰よりも重いのだと思い込みたいのだ。ちょっと、と言うにはあまりにも泳ぐということに情熱を傾け過ぎている。
 そう長くはない人生の三分の二以上を、水辺で過ごしてきたという自信が、黒く深く濁り果てた水面に反比例するように、宮沢の心を随分青臭く作っていた。
 実際のところは、ただ、夏が来るのをじっとして待てない子供なだけだった。水辺に居なければ落ち着いて考え事もできず、そわそわと落ち着けないだけの、子供だった。
 自分以外の誰かがここにいる、ということすら想像できずにいるだけなのだと、認めたくない心が何処かにある。

「……まあ、実際いる訳ないんだけど」

 わざわざ合鍵を作ってまでプールサイドに忍び込む人間なんて、と宮沢は溜息をついた。左ポケットの中でじゃらりと重い音が吐息の音を塗り潰す。俯いて手を添えた場所には、少しだけ温まった銀色が収まっていた。
 かすかに陰った太陽が宮沢を射して、それをゆらゆらと頼りない光を目で追う。空は変わらず可もなく不可もなく曇り空で、寂しい色をしていた。
  
「なにがいないって?」

 ひゅっ、と顔の横を何かが横切って、ぽちゃん、と黒い水が跳ねた。
 瞬きを一つ落として宮沢はえ、と声を上げた。同心円の波紋が広がる水面は、すぐに風に吹かれて波に消された。
 それは耳に馴染んだ聞き覚えのある声で、なぜと思いながら宮沢は振り向いた。
 視線の先には、宮沢の予想に違わない同級生の姿がある。グレーのダッフルコートをまとったそいつは、あーあ、と残念そうに空を仰いだ。

「ちくしょう、外しちまったぁー……コントロールねぇんだよなぁ、俺。とりあえずさー宮沢。お前、バカなの? 寒くないの?」
「……柴崎」
「ちなみに、俺はめちゃくちゃ寒いよ。今すぐ炬燵で丸くなりたいぐらい」

 寒すぎるだろーとおどけながら宮沢の隣に立った柴崎が、はあと息を吐いて指先を擦り合わせた。高校に上がって宮沢よりも高くなった視線は、さっきの何かが落ちたはずの水面を見つめている。
 風に荒らされて、もはやそれがどこに落ちたのか宮沢には分からなかった。

「なんでこんな所に居るんだよーお前は。携帯持ってない高校生とかもう絶滅危惧種すぎて、小母さんに高泰君どこにいますかー? って聞いちゃったじゃん。ああ恥ずかしかった!」

 ばしん、と宮沢の肩を叩いて柴崎が笑う。
 力加減のないそれに一歩前によろけた。

「……痛い」
「お、悪い」
「悪いと思ってないだろ」
「豆粒ほども」
「お前さ、最悪だよな」
「睨むなよー、怖いじゃないですかぁ次期部長」
「……なんで知ってるの」

 思ったよりも驚いた声が出て、宮沢はすぐに口を閉じた。
 さらりと口に出した柴崎は何を勘違いしたのか怒るなよ、と眉根をちょっと下げて苦笑した。吸い込んだ息をゆっくりと吐き出して、別に怒ってないよ、と言いきるといつも通りのお気楽な表情に戻る。
 ポケットに手を突っ込んで小さな包みを取り出しながら、柴崎はだって、と言った。

「先輩に聞いた」
「近藤先輩?」
「あ、お前は近藤先輩から言われたんだ。俺は大島先輩が電話くれた」

 近藤先輩こわそ、と声をたてて柴崎が笑った。
 今年の夏に引退した、あの嵐のように自分勝手で暴君のような三年生から電話があった時、宮沢は確かに怖くて仕方がなかった。
 中学の時から見知っていた清々しいほど筋の入った傍若無人さは、むしろ人を惹きつけて止まなかったし、根が悪い人ではないことは分かっていたけれど、それでもいざ話しかけられると緊張と恐怖が渦巻いて、宮沢は近藤のことがひどく苦手だった。

(お前、来年部長やれよ)

 前置きも何もなしにそれだけ告げられて、じゃあなと電話を切ろうとした近藤を慌ててどういうことですか、と引きとめたのは、ほんの数日前のことだった。
 面倒くさそうに、あ? と凄まれた声に二の句をつげるのは、すごく勇気がいることで、出来ればもう二度とこういうことがなければ良いと宮沢は祈った。

「宮沢は近藤先輩になんて言われた?」
「……クリスマスに彼女の居ない奴を選んで部長の引き渡しをするのが伝統なんだ、って」
「お、やっぱり」

 大島先輩の言った通りだなぁ、と呟いて柴崎が乾いた地面に座った。冷たっ、と言いながら胡坐をかいて、体を抱えて丸くなった柴崎を、宮沢は見下ろした。

「やっぱり、って大島先輩はなんて言ったんだ」
「近藤さんは照れ屋だから、素直に引き渡しできないんだよ、って言われた」
「近藤先輩が照れ屋?」
「ん、まあ俺も全然信じてないけど、大島先輩が言うならそうなんじゃないの。ごめんねって言ってたし。
 とにかく、三年と二年の先輩方が話しあって、で、辻センセにも話を通して、決まった奴にだけ年内に伝えるんだって。俺たち誰が部長ねって伝えられるだけだったしさ、今までどーやって部長と副部長決めてんのか全然分かんなかったけど、やっと謎が解けたなー」

 ぺり、と銀色の包み紙を剥して、柴崎が何かを口に放りいれた。お前も食べる? と手渡されたそれは、小さなキャラメルだった。さっき投げつけられたのはもしかしてこれかと思いながら、同じ様に包みを剥して口に放り込んだ。
 そして、はっと気付く。

「ってことは、柴崎が副部長?」
「お、鈍い宮沢にしては珍しく正解。ご褒美にもう一個キャラメルをやろう」
「……キャラメルはいいよ」
「なんだよー良いから貰っとけよ。俺の奢りだぜ、奢り」
「キャラメル一粒で奢りって言われても」
「なんだと? 人の厚意を無駄にしやがって」 

 むすっとした表情を作ったあと、すぐにけらけらと笑っていいからいいから、と宮沢の手に三粒ほどのキャラメルが押し付けられた。これで文句ないだろという顔をして、柴崎は満足そうに頷いた。

「ま、そういう訳だから、俺はお前を探しに来たんだけどね」
「……そういう訳で、って日本語可笑しいぞ」
「んー? だから、宮沢高泰君はこわーい近藤先輩に部長なんて大役を押し付けられて、なんか色々きちゃってんじゃねぇかなー、と思って」
「……」
作品名:あおぞら 作家名:御門