紫陽花
でも、と藤塚は思う。今になってみるとそんなことはそれほど重要ではないのだと思う。いや、確かに彼女がその後元気で暮らしていて欲しいとは思う。しかし手の届かぬことにいつまでも執着していては先に進めない。
また、実際地図上の遠い近いは意味が無いのだ。精神は自由だ。常に飛びまわれる。常に交流が出来る。彼女が手紙で言っていたとおりだ。彼女の精神がむしろ自由なのであって、魂を自らの心のうちに縛り付けている人のほうこそが?心の?病を患っているのかもしれない。
何が正常で何が異常なのか?
それを決めるのは誰か?
彼女がその後どうなったかまったく知る由はない。しかし、紫陽花の花は毎年、どこかで必ず美しく開花する。梅雨の時期に。そのたびに彼は思い起こす、あの青春の一時を。そして紫陽花に語りかける。
「ありがとう、いつも僕を支えてくれて」
それだけでいい。それだけで事足りる。藤塚はそう語りかけるだけで十分満足なのだが、でも優しい紫陽花の花は必ず彼に応えてくれる。にこっと微笑んで。
「いいえ、こちらこそ。いつも私を見守ってくれてありがとうね」
そう言うと、彼女は必ずきらっと輝きを見せる。その輝きが藤塚を魅了する。こんなに美しい花は他にはない。そう思う。「それでもいつか彼女に会えるだろうか?」心にそう思った瞬間、目の前の紫陽花がかたっと音を立てて動いたように思えた。
「雨が止んだんだ」
医局のガラス窓から日の光が差し込んだ。先ほどから降っていたにわか雨がやんだのだ。するとまた十年前のことが思い起こされる。あの事件の現場……。激しく窓に打ち付けた雨のあの音が生々しく再現される。彼女が搬送されるシーン、次々と再生されていく。鮮明に覚えている、そして最後に、救急車が走り去った後の、あの時の雨上がりのきれいな夕陽とそれに照らされて美しく輝いた紫陽花の花を思い出した。そんな思い出に操られるように、藤塚は席を立つと窓の方へ向かって歩いた。
窓の前に立つと、病院の庭に一面に咲く紫陽花の花が、雨にぬれた潤いをはじけさせるかのように太陽に照らされてそれぞれの色を輝かせている。藤塚はその美しさに圧倒された。
すると、何か大きい力に揺り動かされる自分を感じた。十年分の思い出が一気に頭の中で渦を巻き始めた。そして渦の中止に彼女の笑顔があった。はっきりと見える。はっきりと、手を伸ばせば届きそうだ。
「会えたね……」
夢見心地で、藤塚は窓辺に暫くたたずんでいた。梅雨の季節もそろそろ終わる。
「また、来年も必ず会おうね!」
そう固く心に念ずると、藤塚は白衣を身に纏った。
「さて、往診に行くか」
医局を後にする藤塚の後姿を、机の上の紫陽花の花がいつまでも笑顔で見送っていたことを、見る人は見ていたであろう。知る人は、きっと知っていたであろう。心ある人は、きっとやさしくそんな二人に声援を送ったであろう……。
しかし、心を頑なにする人にはなかなか見えないであろう。
この精神の自由さが
この魂の交流が