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紫陽花

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第一章

 藤塚良太は重い足を引きずりながら、いつもの通学路を歩んでいた。「今日もまた孤独か……」ここのところ憂鬱な思いが続いていた。「こんなはずではなかったんだが……」若干十五才である。それでも彼にしてみればその十五年の人生で初めての敗北感に捕らわれた毎日が続いていた。「劣等性だった小学校の時ですら友人がいたのに、なぜ、なぜ、友人が出来ないんだ?」毎日同じことを自問自答しながら彼は駅前の大通りから裏の路地へと向きを変えた。
 家からは地下鉄に乗って高田馬場で降りる。後は歩きだ。通学路は大通りを当初は利用していた。そちらを行ったほうがにぎやかなのだが、最近は彼はわざとこの狭い路地を通った。別にこちらが近道とかいうわけでもない。なんとなく通ってみたら何か彼の感性に訴えるものがあったというわけだ。「今の俺の青春そのものの裏道だな……」路地に入っていきなり目に飛び込んでくる崩れかかった板塀を見て、彼は自虐的な思いに駆られた。彼の心情にぴったりの、うら寂しい雰囲気の路地だったのである。
 その辺りは早稲田大学が近かったこともあるのだろう。その路地には古いアパートや下宿屋と化した古い民家が軒を連ねていた。色で言うなら灰色というよりも「鈍い」色という言い方が当たっていただろう。すべてがくすんでいた。板塀も、家の壁も、屋根も何もかもが。中には今にも崩れそうなボロ屋もあった。
 ただ、不潔感はなかった。良く掃除されていたというのだろうか。ボロ屋でも玄関先にはきれいな花が植えられていたり、また路地にはごみ一つ落ちていない。おそらく住人達が掃除をこまめにしているからだろう。清潔感とまでは言わないが、手入れが行き届いた感じは強かった。古都の古びた寺院、それも観光スポットから外れた所にあるそれを思い起こして貰えばいいかもしれない。
 その路地裏の古屋の中でも特に彼のお気に入りが、その路地が終わりかけの所辺りにある古いアパートだった。
 その存在感は格別だった。
 そのアパートは路地からさらに一段低いところにあって、鉄製の錆びた古い階段を少し降りたところに広がっていた。古い木造の二階建てである。狭い路地から広がるその空間の、何とも言えない開放感が彼の心を捉えたというわけである。路地裏であるにもかかわらず庭が広く、ほぼアパートと同じぐらいの敷地を占めていた。ただ、その庭はアパートと同じく古びていて、手入れもされてはいるのだろうが雑然とした感じで、小さい池とそのほとりに灯篭が一つあるのだが何かしら不釣合いな感じで、「よく手入れすれば、いい庭園にもなるだろうに」などと、藤塚は毎日この庭の前を通るたびに考えていた。実際四月も五月も、美しい花々が咲き誇るというような光景にはついぞお目にかかったことはなかった。従ってその開放感は彼の心を捉えて良かったわけだが、彼の心を芯から慰めるような存在感とはならなかったということである。「まあ、これも俺の青春を象徴するようなアパートなんだな」つたがからまって所々モルタルがはげているそのアパートの壁を眺めながら、開放感を一瞬感じはするものの、結局彼は最後にはそこでため息をつくのが日課であった。
 そのアパートを通り過ぎると、目の前に大通りが見えてくる。路地の終了である。「さあ、いやな学校だ」彼はさらに重い気分にうちひしがれると、このままどこかへ逃げ出したい衝動に駆られたが、気を持ち直すと、胸をはって大通りへ出た。「惨めな格好は見られたくない」そんな思いからであった。中学校では優等生だった。それでいて友人も大勢いた。男子も女子も。すべてが楽しい毎日だった。「でも今の俺は」大通りに出れば同級生の何人かと必ず出くわすことになる。そんな彼らに自分のうちひしがれた姿は見せたくない……。
 大通りに出ると急に明るくなった。制服を来た女子学生の姿がまぶしく目に映る。彼の学校の隣にある名門女子高校の生徒たちである。きゃっきゃっと騒がしい彼女たちを見てるとまずます藤塚は自分が惨めになった。「でも行くしかない」
 しばらく通りを行くと母校の正門が見えた。
 飲み込まれるように学生たちが正門の中へと消えていく。皆笑顔だ。青春を謳歌しているその表情こそが彼にとっては何より見るに耐えないものであったのだが……。大勢の学友に取り囲まれ、彼は孤独感をさらに募らせる。その中を一人、藤塚は誰とも挨拶をすることなく、俯き加減のまま、その人の波の中に消えていった。

第二章

 友人が出来ないことは、多感な高校一年生にとっては何より辛いことであったに違いない。六月、梅雨の季節に入る前に、藤塚の心はすでに暗雲で満たされていた。「最初はまあまあだったんだが」藤塚は新学期の頃を思い返した。近くの席に座っているクラスメートと会話をし、気の会いそうな級友とは下校の時には連れ立って帰るなど、一見順調な高校生生活の始まりとも思えた。
 しかし続かなかった。
 皆が離れていくのである。と、少なくとも藤塚にはそう見えた。「何故だ?」中学時代と自分は何も変わっていない。その中学時代、自分はクラスの人気者だったではないか!成績抜群、スポーツもそこそここなした。生徒会では会長も務めた。皆が自分に擦り寄ってきた。級友の暖かい目が常に彼を取り囲んでいた。「しかし今思えば」彼は中学時代を振り返って冷静に自分を取り巻く人間関係を考察してみた。するとあることが見えてきた。「俺が実は、皆を、クラスを制御していたのかもしれない」彼はその優秀な知性で皆を支配下に置いていただけなのではないか?彼と付き合っていて決して損は無い、皆はそう思って自分の周りに集まっていただけではないか?今にして思えば彼の交友関係はそんな程度のものだったのかもしれない。でも中学時代の友人とは所詮そんなものではないだろうか?しかしそんな一般論は今の彼には何の慰めにもならなかった。
 高校に入ると状況は一変したからである。
 自分が急に小さくなったように感じられた。気がつくと自分より賢い連中がごろごろ周りにいた。人気者は別に現れた。それも何人も。一つのクラスだけ見ても、すさまじい個性のぶつかりあいの場であった。そんな中で彼は完全に埋没してしまったのだ。「どうすれば浮かび上がれるだろうか?」毎日考えるが答えは出ない。眠れない。「このままでは溺れてしまう」もがけばもがくほどに藻が足に絡まってきそうな、そんな思いで過ごす毎日……。
 学校に行くのも苦痛。
 学校にいるのも苦痛。
 そして……。六時限の授業の終了を告げるベルが鳴った。本来ならいやな学校から開放される瞬間なのだが……。授業が終わっても、しかし彼の心は晴れることは無い。いやむしろますます暗雲が立ち込める。また一つ苦痛に襲われるのだから。
 適当に友人同士三々五々下校する級友達を横目に、彼は一人で下校準備を始める。はじけるように笑顔で校門を飛び出していく生徒達からの、自分への哀れみの視線を感じながら、彼は一人寂しくいつもの下校路を歩む。「早く路地に逃げ込みたい」大通りからいつもの路地へと左折して入る。なぜかほっとする。 
 今日もそうして路地へと逃げ込んだ。いつもの下校路。いつもの裏道。ひとりぼっちの自分。
作品名:紫陽花 作家名:ニンニン