夢のはなし
プロローグ 日常茶飯事
都会に暮らす人間は誰しも(この無感動、無関心)な表情で流れていく街や人を日常と呼んでいるのだろうか・・
康夫はこの都会に生まれ育ち生きて、一流大学を無事に卒業した。順風満帆と言えるぐらいに大手IT関連会社に就職し、そして、10年が過ぎた。
いつものように起き、いつものようにいつもの道を歩いていつもの駅からいつもの電車に乗るためにホームに立っていた。
この10年間毎日同じだ。でもこの日の朝だけはどこか違っていた。
それは、三十路になってからときどき朝、目が覚めると頭の中で何かが弾ける音を聴いたり、目の前をチリチリとよぎる光を感じるようになっていた。
康夫は何かが起こりそうな胸騒ぎを感じていた。
「さて、何が起きるのだろうか?」この日常を変える何かが起こるのだろうか?
そんな事を考えていると、いつもの電車がホームに滑り込んできた。康夫はいつもの車輌のいつものドアから乗り込んだ。車内は既に鮨詰め状態で手を離れた鞄でさえ床に落ちる事などなかった。
康夫はいつもラッシュに身を任せながら車内吊り広告を読むのを常としていた。たまに周りを見回すがいつもの顔が見えるだけで、代わり映えしない光景だった。
「みんな、そんな変わらない日常が安心できるのかなあ?」そんな言葉が頭をよぎった。
車輌は次の駅に入った。乗り換え駅の為に多くの客が入れ代わる、そして、またいつもの顔が揃うのだが、しかしこの朝は違った。何故ならば、いつもの光景に少し視線をずらす事を康夫は考えていたからである。
電車は次の駅に停車して多くの乗客を吐き出して、また、たらふく腹を満たすかのように飲み込んだ。そしていつものようにあの娘を康夫の前に運んで来た。その娘は長い黒髪にしっかりブラシを通してあるらしく綺麗に光沢を帯びていた。そしてシャンプーの爽やかな香りを放っていた。しかし、毎日目にする黒髪だけど、まだ一度も持ち主を拝んだ事がなかった。
「今日はひとつ見てやるか」と思った康夫は彼女の背中に張り付いた胸を電車の揺れを利用して左へずらそうと試みた。しかし、ラッシュで挟まった身体は思うように動かせなかった。数センチずつ動かせたのを幸いに覗き込んでみた。
しかし、身体ごと曲げられないので首を傾げる方法しかとれなかった。 「見えた!いやーまだ横顔にもなってない」康夫はその形の良い小さな耳からアゴのラインに視線を走らせたするとそこにポッテリした赤い唇が見えた。 それから、さらに上に視線を向けようとした時、急ブレーキがかかったので乗客全員が斜めになった。その黒髪も大きく揺れた。
「この時だ!」と思い身体を入れ替えようとした時、鞄が床に落ちてしまった。康夫はそれを拾おうと身体を更に曲げざるをえなかった。そして、そのまま転んでしまい、しかも数人が康夫の上に折り重なってきた。康夫は彼女を探したが既に車輌を降りようとしていた。
その細い引き締まったふくらはぎを見送るだけだった。
康夫が身体を起こした時には電車は走り出していた。乗客の頭越しにあの黒髪を見つけたがすぐに階段に消えてしまった。康夫の降りる駅はまだ五つ先、康夫は何気なく車内の路線図を観た。その時、目の前に閃光が走った。その瞬間次の駅で降りたくなる衝動に駆られた。
ホームに滑り込んだ電車のドアが開いた時、康夫は躊躇なくホームへ降りた。
その駅に降りる人は少ない。脇には運河が流れていて、川面は朝日に照らされキラキラ輝いていた。
ホームに独り佇んで初夏の澄み切った青空を眺めて、ぽつりとつぶやいた。「ヨシッ!決めた!」そう言うと駅舎を出た。ポカポカとした朝日を背に運河沿いを歩いていた。運河には小さな船が数隻行き交っていた。停泊中の船がその余波で揺れていた。
康夫はしばらく歩いていると或るヨットハーバーに着いた。そこはこじんまりとして、今は寂れた感じのハーバーだった。
康夫は桟橋に降りて一槽ずつ懐かしむように観て歩いた。一番入江の出口付近に数隻の(SELL)の札の架かったヨットがあった。その中でも木目を生かした20メートル級のヨーロッパ風の[DREAM号]に興味を示して乗り込んだ。
康夫は装備や操舵、設備を点検して桟橋に戻り遠くの小屋を見た。
「おやじいるかなあ?」そうつぶやきながら小屋へ向かった。[SHIP DOG]という愛想のない古ぼけた看板がぶら下がっていた。中に人影が動いた。「おお、いるな?」康夫は窓越しに中を覗いた。中では初老の浅黒い顔に白髪の痩せた男がパーコレーターでコーヒーを沸かしていた。 康夫はニヤリとしながらいきなりドアを開けた。当然おやじが驚くかと思ったのだが、背中を向けたまま康夫に話し掛けた。
「ドリーム号、いい船だろ?気に入ったみたいだな?コーヒー飲むだろ?懐かしい顔だなあ」と、矢継ぎ早に話してきた。
「なんだ見られてたのか?」そう言いながらスプリングが効いていない革のソファーに腰を降ろした。すると、昔とちっとも変わらないヒビの入ったマグカップが目の前に置かれた。
その香り立つ湯気に大学のヨット部時代が康夫の脳裏を横切った。目の前に腰を降ろしたオヤジは一口コーヒーをすすると溜息をついた。
「この時間がいいんだよ」それは昔と変わらないつぶやきだった。「オヤジは変わらないなあ?」と康夫もコーヒーを啜った。
「あの船は俺の夢の続きを観せてくれる」オヤジがポツリとつぶやいた。
「なんか、俺に言っているみたいだなあ?」
「お前のあの船を観ている背中が語ってた気がしたよ」
「解った、一週間後に出航できるようにしてくれ?」
話はそれだけで充分だった。愛想のないオヤジはうなずくでもなく、合図をするわけでもなくただコーヒーを飲んでいた
康夫は飲み欠けのコーヒーを置くと、そのまま小屋を出た。
ヨットハーバーを出ると駅へ向かいながら携帯電話をかけた。しかも続け様に4か所にかけた。
最後の電話をかけながら遠くにアウトドアショップを見つけると、そこへ向かって歩き出した。そして、中へ入って行った。
晴天の空には雲一つなく澄み切った青空だった。
しばらくして出て来た康夫はすっかりスーツ姿からヨットマンの服装になっていて、大きなスーツの入った袋を入口のダストボックスに躊躇いもなく捨ててしまった。