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暁女神<エオス>の目覚め 離星の章

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離星-1



泥の底、奥深くまで沈んだ意識が不意に、外界の様子を濁った水面越しに捉えた。
それは、水の浮力を借りて、少しだけ浮いたように思えた。
―――水の、中…?
いや、違う。息は自由だった。意識が少しだけ覚醒したのに、泥がまとわりついているがごとく、体を動かすのが難しい。瞼を開けることも叶わなかった。
複数の人の声。何を言っているかはわからない。何故ならそれは遠く水上のようだったし、暗号のような意図の掴めない言語で話していたから。
耳鳴りがする。頭がくらくらして、意識を保っていられない。本当に水中にいるような感覚が体を包む。再び底まで引きずられていくのを感じた。
耳元で、弱々しい声が囁く。
(生きて、生きて…)
その間にも水上の声は遠く、遠く、遠く…。
最後に感じたのは、額に当てられた温もり。
誰かの体温なんて、久しく感じたことがなかった。
知らずに目許が熱くなって、でもこれは夢だと言い聞かせる。意識はまた混濁し、どぷりと沈むと、再び何も感じない深い眠りに就いた。





電流が全身を駆け巡ったような衝撃を感じて、がばりと半身を起こす。
今まで悪い夢を見ていたかのように、心臓の鼓動が嫌に早かった。
ゆっくりと息を吸って、吐いて、口の中がカラカラに渇いていることに気付く。
「…Duektnaj」
「……?」
それは夢で聞いた奇妙な暗号だった。
だがすぐに、それは聞き慣れない言語なだけであって、意味がわからないわけではないのだと、脳が勝手にチューニングをしてくれる。
…『…やっと起きたのかい』。
その言葉を発したのは、今自分が寝ていた簡素なベッドの脇に椅子を置いて、読んでいた本に栞を挟んだ男だった。
まだ若いが、長く黒いゆったりとした僧衣を纏って、威厳を放っている。
上着と一体になった頭巾で顔を隠しているようだが、女に好かれそうな美しい流れるような金髪と、すっきりとした白い顔がそこからちらりと覗いた。
碧い眼がじっとこちらを見つめてくる。
…こちらを…。
ふと感じた違和感が漠然とした不安を胸にぶつける。
こちらとは…"自分"とは……何?
名前は?年齢は?どんな顔?いったい自分とは、誰であるのか。
その一切の情報が、欠落していることに気付いた。
ぽっかり空いた穴は、あまりの不安と恐怖に狂気を感じさえするほどに、重大な欠損だった。
「うわああああああああああああああああ!」
口を開ければ無意味な音の羅列。しかしそうでもしないと、このまま自分が消えてなくなってしまいそうで。
「大丈夫、大丈夫だから」
男が何事もなかったように穏やか顔でこちらに手を伸ばしてくる。
きっと背中を撫でようとする手だ。
しかしそれがわかっていながらも、その腕を払わずにはおられなかった。
他人の、大の大人の手。吐き気がする。背中にぞくぞくと悪寒が走る。
空白の時間。どうしても思い出せない、記憶。
耳を塞ぎ、薄い毛布に潜り込むと、外の世界から一時的にでも遮断されたようでほっとする。
もう何とも関わりたくない。怖い。
「大丈夫」
再び優しげな声が響き、丸めた背中を温かな掌が撫でるまで。ずっとそうしていることだけが、唯一自分が助かる道だと思っていた。
だが、男の手がもう一度、その言葉を呪文のように繰り返しただけで、寒々とした心が、嫌に速かった動悸が、落ち着き暖まる。
「私は君を害したりしないよ。ただ助けたいだけなんだ」
ああ、夢の中のあの掌は、この掌だったのだと、気付いただけで涙が出た。
振り返ると、あの男は僧衣のまま床に跪き、こちらに身を乗り出している。フードを振り払ったのか、同性でも見惚れる美しい顔があった。髪は少し見えた通り、豪奢な発色の良い金髪。
「心配しなくてもいいさ。ここはプレーヴォ領のグリ村。私はこの村唯一の教会の神父。エティエンヌだ」
その地名にも、覚えはまったくなかった。
本当に、何も思い出せない。
思い出そうとしても、それはだめだと心の中から抑制の声と吐き気が襲ってきて、思い出す気にもなれない。
「……俺は、誰だろうか」
それは、少しぶれているが自分の声だった。
それだけは確かで、揺ぎ無いもの。確かにここに存在するのだと思える初めての根拠のようで、またうっと声が詰まる。
その言葉に神父は驚いたように顔を強張らせ、すぐに何かを思案するように目を細めた。
「…記憶が、ないのかい」
言葉なく頷くと、エティエンヌという神父は一瞬同情のようなものを顔に浮かべた。
(その表情は大嫌いだ)
そう思えたことに、少しだけ驚く。
自分は何もかも失ったわけではない。過去に繋がる感情を、感覚を、忘れてはいなかった。
自分の掌に目を落とした。
男のものだ。しかし大人のものではない。爪が割れ、土が入り込んでいた。
そういえば、体中が痒い。痒いというより、じわじわと滲むような痛みがあった。
首の辺りで項をくすぐっている髪を引っ張って見ると、目の前のエティエンヌとはまったく色の違う、黒々とした色だった。
「君は村の外れで倒れていたところを、ここに運ばれてきたんだ。ずいぶんひどい怪我だった」
「怪我…」
そこではっとして、頭の中の靄が一瞬だけ晴れるのを感じた。
老いた驢馬に乗って、旅をしていた。どこか目指していた目的地があった気がするが、それは暗闇の中だった。
長い長い旅。気が遠くなるような孤独の中、旅をしていた。
食糧もなく、助けを求められる人もなく。
驢馬ごと崖から落ちてしまって、大怪我をした。それでも運良く生き残り、あまりの空腹に死んだ驢馬を食べた。それから眠り、ほんの少しだけ回復した後、再び歩き出した。たった一つの希望を持って。また数え切れない夜を歩きとおした。意識が既に飛びかけていたが、最後の最後に、やっと見つけた人の気配に安堵して、そのまま気を失ってしまった。
…それだけは思い出すことができた。
ありのままをエティエンヌに話す。彼はまるで自分のことかのように辛そうに目を細めると、再び背中に手を当ててきた。
少しびくっとしたが、今度は振り払わなかった。
「そうだ。お腹空いただろう?さっきマリエッタ…ここで預かっている子供なのだけれど…マリエッタが私のために食事を持ってきてくれたんだ。私はいらないからお食べよ」
エティエンヌは小さな卓に置かれた、使い込まれた木の皿を寄こしてくる。
覗くと、ほのかに湯気の立つスープが入っていた。
それを見ると自然と舌の上に涎が溜まり、存外腹が空いていたことを思い知らされる。
「…ありがとう」
神父の食事がまだだということが気懸りで遠慮したかったが、食欲には勝てずに皿を受け取る。
少しずつちびちびと口づける。ほんのり野菜の味がする温かいものが喉を通り、お腹へ流れていった。
人の手が通ったもの、火の通ったものは、本当に久しぶりに口にした気がした。
ほっと息を吐く。さっきとは比べ物にならないくらい、気分が落ち着くのがわかった。
「お腹が空いていたからカリカリしていたのかい?」
微笑で茶化され、恥ずかしさに気まずくなる。だが空腹は否定できなかったから、エティエンヌを睨みつけるだけに留めておく。
「……ジャド」
「え?」