ネイオーンの詩
第2章
若い青年が泉のほとりの柳の下で人待ちをしている。
かれは長い間待っていたが、それはかれが待ち合わせ時刻よりも早くに来すぎていたせいである。青年がなおも待っていると、ひとりの娘がそこに駆け寄ってきた。彼女は名をローズと云った。
青年の名はアーキン。しかし青年は自分の真の名を彼女に明かしていなかった。彼はキアムと名乗っていた。
「君のことを想わないときはない」アーキンは情熱的な眼差しでローズを見る。
「わたしもよ、キアム」ローズが云う。
二人は相思相愛だった。が、この恋には障害があった。つまり、アーキンの来歴についてである。
アーキンは地上の人間ではなかった。〈地上の〉と冠することが間違っているのでなく、そもそも〈人間〉というところが誤りなのである。かれは本当のところを云えば、天界につらなる列神のひとりだったのである。神としての格は天帝を頂点とするヒエラルキーの末端であったものの、神は神である。なぐさみで天界から地上を眺めていたとき、アーキンは、この泉のほとりにたたずんでいるローズの姿にひかれてしまったのだった。そして、罪を受けることをいとわず、アーキンは地上に降りて、人間をよそおって彼女に近づいた。
逢瀬を重ね、お互いがお互いを必要とするところまで気持ちを高め、その思いに誠実になろうとしたアーキンは天帝に自分の気持ちを余すことなく、伝えることに決めた。
天宮はいまもむかしも荘厳ならびなく、こうごうしいきらびやかさをもって、そこに建っている。この奥にこの世のすべてのことがらをつかさどっている天帝がいるのだ。アーキンは自分が申し出ようとしていることは、情によって受け容れられるものと思っていた。アーキンが天宮に入ると、天帝は寸暇を惜しんで、上申書などに目を通していられたが、ヒエラルキーの末端であるアーキンのような下級神に対しても、天帝は敬意を損していない様子で、かれが入ってくるとすぐに意見を聞かれる状態にもっていかれた。
「アーキンよ、久方ぶりであるが、いったい今日はどうしたのだ?」と天帝。
安定感と張りのあるいい声だった。
「はい、わたしは妻をめとりたいと考えています」
「妻を? してどの者だ」
「それは地上のレーゼの大陸に住まうローズという娘にございます」
「うん?」天帝は目をしばたたいた。「地上のものと云うことは、それは人間であるのか?」
「はい」
「そなた、人間とちぎりを結ぶと云うことは大罪に値することをしらぬのか?」
「いえ、それは重々承知しております。ゆえに、わたしの神格を剥奪ください。わたしは以降人間として、地上で生活していこうと思います」
アーキンが発言を終えると、天帝は怒りに青筋をぴくぴくさせた。
「それはならん、ならんぞ。が、神格を剥奪することについては受け容れてやろう。そなたには二十年間の地獄の責め苦を与える。そこで自分のいま申したことについて反省し、悔いて行くがよい」
アーキンは無念に表情を曇らせた。天帝に自分の意志の通じなかったことを、ただただ自身の不甲斐なさに関連付けて、落ち込んだのだった。
かれは二十年間、地獄の責め苦を受けることになった。獄卒たちは容赦がなかった。自分たちがこうして荒涼たる地獄の風景のなかに取り込まれていることに不満を覚えている者たちであったので、これまできらびやかな天界の住人であったアーキンに対して、獄卒たちが妬心を抱いたのが、責め苦をつらいものにさせている原因であった。
アーキンは二十年の責め苦を耐え抜いた。その間、かれの心のなかにはただひとつの可憐な花、ローズのことがいつもあったのだった。
「ローズ、わたしはここでこうしてまだ生きている。そなたも生きぬいてくれ」
かれは責め苦から解放される一日のうちの数時間のなかで、このようなことを考えたが、しかし、同時に、また、救いのない考えも頭に浮かんで、それに懊悩するのだった。
(ローズはもういい人を見つけて、ほかの男と一緒になっているかもしれない。ローズの子供なんて、おれの子供以外に見たくはない。見たら、きっと呪ってしまうだろう……。神は恋愛をしてはならないとは至言だな。こうしてやきもちを焼いて、あらぬ敵をつくりあげて悪心を持つのだから。元神である自分ですらそうなのだから、なんの後ろだても持たぬ人間であれば、その悪心の大きさはいかばかりのものか……)
アーキンは二十年みっちり責め苦を施され、身も心もぼろぼろになりながら、やがて、地上に釈放された。地上ではすでに二十年の月日が経っている。数ヶ月かけて、アーキンはあの泉のほとりの近くの村に行ってみた。ローズのいた村である。
アーキンはそこでローズの消息を訊ねた。
が、彼女の行方は明らかにならなかった。もともと、アーキンにローズ以外の村人との交流はなかったので、二十年経って年ふりたかれの姿を見、ぼろぼろの衣服を見、悪臭までただよっているかれの身体のみにくさを見た村人は、そんなかれにローズの消息を教えるほどお人よしではなかった。それで情報の得られないかれはあの泉のほとり、柳の下に蹌踉として進んでいき、泉の底を見透かした。不審に思った村の青年たちは徒党を組んでかれのあとをつけたのだが、青年たちが見ていると、アーキンはそのまま、ざぶんと泉に飛び込んだのである。
「お、おい!」純朴な村の青年は面喰った。
まさかあの浮浪者が泉に飛び込むなんて、とありえない事態に混乱をきたした。が、そのなかのひとりの青年が機敏に反応して、泉にかけより、アーキンを救出した。
アーキンは命を救われた。
村の集会場に運ばれたかれは手厚い介抱を受けて、一命を取り留めた。
翌日、回復してきたかれに村長が声をかけた。
「どうしてこんなことをなさったのですか?」
アーキンは答える。「わたしは二十年前、この村の女性ローズと将来を誓い合った仲だったのです。彼女ともう二度と会えないと思ったら、生きている意味も見出せなくなって、それで死んですべてを終らせようと、そう思ったんです」
「そうでしたか、たしかにローズには当時、想い人があったと記憶しています。彼女はいまも独身で、隣の町にひっこして、そこでひとり生活していたはずです。わかりました。彼女に会わせて差し上げましょう。それでうまくいくことをわたしたちも願っています」
アーキンは村長たちに感謝した。
自分の身体が回復したら、すぐにでも彼女に会いに行こうと、そう決意したのだった。
【ネイオーンの詩 第2章・了】