キジと少年
片や居間でテレビを見ていた勇人もさすがに省吾の泣き声に気づき、何事かと子供部屋に顔を覗けた。そして泣き顔の省吾とぴったり視線が合ってしまった。その時だった。
「あっ、勇人、お前が盗ったんだろう! おらの鉛筆返せ!」
省吾が声を荒げて勇人の胸倉に掴みかかってきた。
「返せ返せ返せー。おらの鉛筆返せー!!」
その言葉に驚いた勇人の顔が、一瞬にして困惑の表情を浮かべた。それをすかさず芳恵が見咎めた。
「ま、まさかお前――お前が盗ったのかい?」
芳恵の詰問するような言い方に、ただでさえ声を発せられない勇人はますます怖気づいて、手振りで否定することすらできないで震えていた。
その様子に、どうやら芳恵と省吾は完全に誤解してしまったようだ。勇人が盗ったと思い込んでしまったのだった。
そして、急いで居間へ駆けていった省吾が、
「あった! あったよー。おらの鉛筆あったー。やっぱり勇人だったんだー!」
そう叫んだ途端に、勇人の罪は確定的なものとなってしまった。
芳恵に引っ張られるようにして勇人が居間へ行くと、省吾が鉛筆を握りしめた手を高く掲げて、昔のウルトラマンの「ジュワッチ!」のように立っていた。
テーブルの上の勇人の筆箱はひっくり返り、その中身はコロコロとテーブルの上を転がっていた。
「ほらあったよ。やっぱり勇人が盗ったんだよ。だって勇人の筆箱の中にあったんだから」
芳恵が勇人を冷徹な瞳でジロッと睨んだ。
慌てて勇人は頭を左右に振った。
それまで芳恵にそんな目で見られたことは一度もなかった勇人は、足元から黒く蠢く小さな蛆虫〔うじむし〕のようなものがぞわぞわと湧いてくるような気がしてきて身体がすくみ、同時に頭の天辺からつま先に向けて身体中の血液と体温がどんどん下降していくような、さらには自分の身体が単なる枯れ木になってしまい、今すぐにでもポキッと折れてしまいそうな、そんな捉えどころのない不安と恐怖が自身を襲い、初めて人を怖いと思った。
バシッ!
いきなり芳恵が勇人の頬を打った――。
その瞬間、自分の両親が殺されるのを目撃した時のとはまた違う恐怖を肌に感じて、勇人は魂を震わせた。これまで両親にぶたれたことも一度もなかったから、生まれて初めて人にぶたれた瞬間だった。
芳恵のそれは、憎しみに満ちみちた感情の爆発だったのかもしれないが、まだ八歳の勇人には、憎しみの感情というものがはっきりとは分かっていなかった。
両親が殺された時ですら、犯人を憎いと思う感情は湧いてこなかった。それよりも、両親の姿がもう『生きている姿』でないことの悲しみ、もう決して自分を抱きしめてはくれないんだという悲しみ、自分の名前を呼んでもくれないんだという悲しみ――とにかく悲しみしかなかった。
――勇人に弁解は許されなかった。もし口が利けていたら……あるいは状況が違っていたかもしれない。
しかし現実には、勇人は何の弁解もできないまま、そのことが切欠で、その後、三人からは明らかな余計者扱いをされることになってしまった。
当然ながら、鉛筆など買ってはもらえない。
それからの日々は、勇人にとってはとても辛いものだった。学校では辛うじて鉛筆を借りることもできたけど、宿題をすることができずに学校に行くものだから、先生が「どうした?」と心配してはくれるが、もし本当のことを言った場合、自分の帰る場所がなくなるのではないかと、それが心配で何も言えなかった。
食事も、それまでと比べても、一緒に食べる他の三人の物に比べても明らかに劣悪になったし、学校から帰ると、掃除や洗濯をするようにと命じられた。
それらを少しでもやり忘れたり、手を抜いたりしようものなら、命の危険を感じるほどの恐ろしい罰が待っていた。年上の省吾は外で遊んでいるというのに……。
もはや勇人にとっては、その「家」は憩いの場所でも安らぎの場所でもなく、苦痛の場所に姿を変えてしまった。そして、新しい家族だと少なからず思っていたものが、それも仮面を被った顔だったのだと思い知らされた。だから勇人は、一日に何度も泣きそうになった。だがその度に、父親の言葉を思い出して耐えていた。
――泣くんやないで。勇人は男なんやから――
「とうちゃん。かあちゃん。ぼくなかないから……」
そう心で叫ぶ勇人の頬には、ひとすじ光るものが流れて落ちた。