覆水盆に帰らず
「それは、私から説明して差し上げます。まず、自己紹介をさせて頂きましょう……私、こういう者です」
言って、不起は若草遊人に一枚の名刺を差し出した。
「ええっと。『事件代行人』……。…………?」
名刺を読んでもいまいちぴんときていない若草遊人に、不起は畳み掛ける。
「私は、貴方のご令嬢から依頼を承りましたの」
「……え、ご令嬢というと……娘、ですか」
「はい」
不起は肯き、再起の膝の上に腰を下ろした。再起がうわあと声を上げたが、それには一切構う素振りを見せない。
「若草遊乃さんから、幽霊騒ぎを起こしてくれるようにと」
「何、……あの子が、そんなことを言ったのですか」
「ええ」
若草遊人は戸惑いの表情を浮かべた。
「何故あの子がそのようなことを?」
「そんなことは存じません。ご令嬢に直接お聞きになれば宜しいのではないかと」
突き放すような不起の物言いに、若草遊人は益々混乱していく。再起はといえば、興味深げに一連のやり取りを見守っているだけだ。
「先生、宜しいのですか」
助手が、再起の耳元で囁く。
「ん、何がだい」
「このやり取りを止めなくても――」
「良いんだよ。別に、私が出る幕じゃない」
「…………」
助手は不満げに眉をひそめたが、それ以上何も言おうとはしなかった。
若草遊人が、理解に苦しむと言ったように髪を掻き回し、声を荒げた。
「どうして……、いや、それなら何故貴女は私の娘の依頼など引き受けたのです。あんな年端もいかない子供からの依頼を……!」
「代価はきちんと支払うと、約束してくださったからです。代価さえ頂けるなら、私はどんな依頼でもお引き受けいたします」
しれっとした不起の対応に、若草遊人はとうとう立ち上がり、混乱した頭で叫んだ。
「もう良いです! そんな契約は知らないっ……今すぐお帰りになってください!」
「…………」
不起はじっと若草遊人を見上げていたが、やがてひとつため息をついて、再起の膝から腰を上げた。そのまま扉へ歩いて行こうとした、――が。
「お父さんっ、その人は悪くないのっ」
幼い声が、急に開いた扉から聞こえてきた。一同の視線が向けられた先には、若草遊乃が立っていた。小さな彼女は、重い扉を苦労して押して、部屋に入ってきた。
「遊乃……!」
若草遊人は驚き、慌てて遊乃の傍へ近寄った。
「遊乃、お前は一体どうして」
「お父さん、御免なさい。勝手なことをして、全部遊乃が悪いの」
「遊乃が何をしたって悪いことなんてないよ……。お父さんは遊乃のことを怒ったりはしない」
「本当に……?」
遊乃は涙を溜めた目で父親を見上げた。若草遊人は真剣な顔で肯き、遊乃を抱き上げ、自分の椅子の隣に座らせ、自身も座った。部屋の中が、ようやく静まり返る。
不起はむっとした顔で壁に寄りかかっていたが、やがて落ち着いたらしい若草遊人に勧められて着席した。
「不起さん、先ほどは頭に血が昇って……、失礼なことを言いました、許してください」
「別に、私は気にしておりません」
不起はつんとした表情で若草遊人の謝罪を受け流し、その視線を遊乃に向けた。
「遊乃さん。こうなってしまった以上、貴女から理由をお話になるのが一番良いかと思います」
「はい……」
遊乃は目を伏せて肯き、父親のほうに身体を向けた。
「お父さん、私……お母さんとお話がしたい」
「……お話、を?」
若草遊人はぱちくりと瞬きをした。
「どういう意味だい?」
「そのままの意味でしょう、若草さん」
そう、言葉を挟んだのは再起だった。若草遊人が再起を見ると、彼は自分の膝に肘を付き、組んだ両手の甲に顎を乗せていた。そして、穏やかに遊乃を見つめていた。
「そのままの意味なんですよ。遊乃さんはですね、奥様の気を引きたかったのです」
「家内の気を……引く……?」
若草遊人は呆然と繰り返し呟き、遊乃を見た。
「遊乃、そうなのか? そんなことのためにお前は……?」
当惑する遊人の言葉に、遊乃はまたも泣き出しそうに唇を歪めて、俯いた。
「そんなこと、ではありませんよ」
再起は、遊人に諭すように言う。
「見たところ、奥様は一日中お仕事で部屋からほとんど出ておられませんね。職業上の勘というやつです、当たっているでしょう?」
「…………」
若草遊人の沈黙を肯定の意に取った再起は、そうでしょうそうでしょう、と大仰に肯き、続ける。
「さっき、遊乃さんのお世話は遊人さんが行っていると仰いましたね。勿論それはそれで結構なのですが、どうです遊人さん。遊乃さんと奥様は、普段からあまり顔を合わせていないのではありませんか」
「そ、それは……」
「遊乃さんは寂しかったのですよ。いくらお父様が一緒にいてくださるとは言っても、お母様ともお話がしたかったのです」
再起は言いながら、遊乃ににこりと微笑んだ。遊乃はそれでいくらか元気付いたらしく、キッと顔を上げて父親を見た。
「お父さん。勝手に騒ぎを起こしたりして、本当に御免なさい。でも私、お母さんとお話ししたい。毎日会って、一緒にご飯を食べたい」
「遊乃……」
父親は感極まった様子で、遊乃を抱きしめた。
「遊乃、悪かったね。お父さんはそこまで気が回らなかったんだ……、許してくれ。お母さんにはお父さんから話して、これからは家族皆で食事を摂ることにしよう。もう遊乃に寂しい思いはさせないよ」
「ありがとう、お父さん……!」
父娘が涙を流しあうその光景を、助手は安堵の表情で眺めていた。再起は、若草父娘をじっと見つめる不起を観察しながら、彼にしては珍しく、にやにや笑いを浮かべていた。