赤い文字
深夜に起こったボヤ騒ぎのせいで、ショウタはその日ほとんど眠ることができなかった。
ベッド脇の窓からは消防車の回す赤い警告灯がずっと部屋に入り込んできたし、周辺は祭り会場みたいに騒がしかった。
なにより締め切った部屋にまで入り込んでくるものの燃えた臭いで頭が痛かった。エアコンを通して煙が入り込んできたのだろうか、
気づいてスイッチを切ったころにはもう咳が止まらなかった。ショウタは仕方なくリビングの椅子にすわって牛乳を飲んだ。
何気なくテレビをつけたけれど、目の奥が鈍く痛んでまともに見れなかった。
しばらくして火事見物から帰ってきた母親が言うことには、これは不審火らしかった。
火が出たのは家から歩いて30秒ほどのマンションで、そこのゴミステーションに火が投げ込まれたらしい。
確かにあそこは監視カメラどころか街灯も無かった気がする。
「怖いわねぇ、悪戯か知らないけれど、うちが狙われた可能性だってあったわけだもんね」と母親が青白い顔をして言った。
確かにいつも何気なく通り過ぎている風景でそんなことが起こるのは奇妙な気分だった。
翌日、悪夢の続きみたいな目覚めを味わったショウタは、通学途中に火事現場へ寄ってみることにした。
自転車を車庫から出すと、いつもの朝とは反対の方向へ走り出す。事件の現場、ゴミステーションの辺りにはもう誰も人はおらず、火事の痕跡も無かった。
ショウタは自転車でマンションの周りをぐるっと回ってみるけれど、特に面白いものは見つからなかった。
ただ通りがかる人たちは昨日の出来事を知っているようで、横切るときにみなそこを一瞥して歩いて行くくらいだった。
(あれだけ大騒ぎだったのに、つまんないなぁ)といつもの通学路へ戻ろうとペダルに力を入れようとしたとき、
マンションとは反対側、月極めガレージがある電柱に、小さく落書きがあるのにショウタは気づいた。
ショウタが近づいてみると、そこには赤いスプレーで≪来た、見た、勝った≫と書かれてあった。
昼休み、広い学食の端っこでショウタは友人のテライに今朝の出来事を話すと、テライは変にその話を面白がった。
「≪来た、見た、勝った≫。それって、シーザーが戦争に勝ったときに残した名言だよ」とテライは興奮した表情で言う。
「なんだかミステリーみたいだな、それって。放火魔が残したメッセージじゃないのか」
「やめてくれよ」と、ショウタは笑えずに言った。さっきまでどこか他人事だったテライもショウタの表情に気づいて少しだけまじめな顔になって、
「昨日のうちに書かれてたとしたら、まだ警察とかも気づいてないかもしれないぜ、もしかしたら通報したほうがいいのかもな」と慌てて言う。
「通報っていっても」と、ショウタはため息混じりに「偶然その時に落書きを見つけたってだけで、前からあったのかもしれないしさ」と言う。
「忘れたほうがいいって、ただの悪戯だろうしさ」と、テライはまた笑ってショウタの肩を叩いた。
学校が終わった帰り道でも、ショウタは落ち着かなかった。
テライが言ったことがもし事実だったら、とショウタは考える。放火しておいて≪勝った≫と言ってのけるような狂人が自分の家の近くにいたのかと思うと吐き気がした。
世の中の死角に忍び込んでは犯行を行い、世間が驚き慌てふためく様を見ては勝ち誇る。きっとそいつは常習的にそういうことを繰り返しているのだろう、と思った。
思えば思うほど怖くなって、ショウタはいつもとは違う道から帰ることにした。少しだけ遠回りになるけれど、人通りの多い大きい商店街を通って帰るのだ。
そう思って自転車を漕いでいると、恐怖のせいで、無意識にその文字を探していたのだろうか。暗がりの道、電柱のところに赤い文字が書かれているのにショウタは気づいてしまう。
驚いて自転車を止めて電柱に近づくと、そこには今朝と同じ赤いスプレーで≪来た、見た、≫と書かれてあった。ショウタは全速力でそこから離れた。
家に帰るとショウタは警察に電話を掛けた。
「落書きねぇ、一応だけ調べてはみますけどね」と、電話口で男性警察官が言う。
「それだけで特別に警備をしたりはできないんですよ。落書きなんてどこにでもありますからね」
ろくに相手にされず電話を切ってもショウタは不安なままだった。殆どやけくそで数学の参考書を開いてみたけれど、少しも頭に入ってこない。
気にしないでおこうと思えば思うほど、脳裏にあの赤い文字が浮かび上がってくる。ショウタは混乱したままテライに電話をかけてさっきの出来事を相談しようと思う。
こんなのはただの偶然の一致なのだ、友達との笑い話にしてしまったほうがいいのだ、とショウタは思った。数回の呼び出し音で、テライが電話に出る。
「もしもし、テライかよ、実はまたあの落書きを見つけちゃってさぁ!」と、ショウタはバカみたいな勢いで大声で言う。
「おい、お前、もしかしてそれって」と、テライは対照的な声で言う。
「商店街の近くの道じゃないだろうな。俺の家がそこの近くで、さっきボヤがあっていま大騒ぎして―――」
ショウタはその言葉を最後まで聞けずに携帯を落とした。
翌日、ショウタは母親に風邪気味だと嘘をついて学校を休むことにした。恐ろしくて外に出たくなかったのだ。
昼過ぎにテライから電話があって、やはり昨日の電柱の落書きの近くに放火があったこと、それによって死傷者が出たこと。
そして、落書きに≪勝った≫の文字が書き足されていたと報告があった。
「もう警察には電話したんだしさ、俺たちにできることは全部やったんだからあんまり心配するなよ、どこにも行かずにのんびり家で寝ててくれよ」とテライは言った。
ありがとう、今日は本当に風邪だったからさ、とショウタは言って電話を切った。
ショウタはパソコンをつけてインターネットで世界の犯罪者について調べてみる。放火魔という存在への恐怖を打ち消そうと、理性がそうさせたのかもしれない。
それによると、猟奇的な犯罪者の中には「サイコパス」と呼ばれる精神的な疾患を持ったものが少なくないらしかった。
生まれつき善悪の境界が希薄で自分が偉人であるかのようにプライドが高く、他人の痛み苦しむ様子を見てゲームのように勝ち負けを楽しむ。
今回の放火魔もまさしくこういう部類の人間だとショウタは考える。遺伝子のレベルで犯罪者になることが決定している人間が現実には存在するのだ。
もし、犯人が自分が通報したことを知ったら報復に来るかもしれないとショウタは思う。それまでは出歩かずに部屋にこもっていよう。
死傷者が出た今は警察も本気になって捜査するだろう。犯罪の成果を小さく世間に自慢するような性格なのだ、手がかりも少なくはないはずだし、
恐らくは三日もすれば絶対に捕まるはずだ。それまで逃げ切れればこの「勝負」は僕の勝ち、なのだ。
ショウタは両親が時々使っていた睡眠薬を戸棚から二錠だけ取り出すと、それを飲んでベッドに横になった。
数時間後、何度も繰り返すインターホンのベルでショウタは起こされた。宅急便だろうか、と思いドアを開けてみると、玄関に封筒が置いてあるだけだった。
ベッド脇の窓からは消防車の回す赤い警告灯がずっと部屋に入り込んできたし、周辺は祭り会場みたいに騒がしかった。
なにより締め切った部屋にまで入り込んでくるものの燃えた臭いで頭が痛かった。エアコンを通して煙が入り込んできたのだろうか、
気づいてスイッチを切ったころにはもう咳が止まらなかった。ショウタは仕方なくリビングの椅子にすわって牛乳を飲んだ。
何気なくテレビをつけたけれど、目の奥が鈍く痛んでまともに見れなかった。
しばらくして火事見物から帰ってきた母親が言うことには、これは不審火らしかった。
火が出たのは家から歩いて30秒ほどのマンションで、そこのゴミステーションに火が投げ込まれたらしい。
確かにあそこは監視カメラどころか街灯も無かった気がする。
「怖いわねぇ、悪戯か知らないけれど、うちが狙われた可能性だってあったわけだもんね」と母親が青白い顔をして言った。
確かにいつも何気なく通り過ぎている風景でそんなことが起こるのは奇妙な気分だった。
翌日、悪夢の続きみたいな目覚めを味わったショウタは、通学途中に火事現場へ寄ってみることにした。
自転車を車庫から出すと、いつもの朝とは反対の方向へ走り出す。事件の現場、ゴミステーションの辺りにはもう誰も人はおらず、火事の痕跡も無かった。
ショウタは自転車でマンションの周りをぐるっと回ってみるけれど、特に面白いものは見つからなかった。
ただ通りがかる人たちは昨日の出来事を知っているようで、横切るときにみなそこを一瞥して歩いて行くくらいだった。
(あれだけ大騒ぎだったのに、つまんないなぁ)といつもの通学路へ戻ろうとペダルに力を入れようとしたとき、
マンションとは反対側、月極めガレージがある電柱に、小さく落書きがあるのにショウタは気づいた。
ショウタが近づいてみると、そこには赤いスプレーで≪来た、見た、勝った≫と書かれてあった。
昼休み、広い学食の端っこでショウタは友人のテライに今朝の出来事を話すと、テライは変にその話を面白がった。
「≪来た、見た、勝った≫。それって、シーザーが戦争に勝ったときに残した名言だよ」とテライは興奮した表情で言う。
「なんだかミステリーみたいだな、それって。放火魔が残したメッセージじゃないのか」
「やめてくれよ」と、ショウタは笑えずに言った。さっきまでどこか他人事だったテライもショウタの表情に気づいて少しだけまじめな顔になって、
「昨日のうちに書かれてたとしたら、まだ警察とかも気づいてないかもしれないぜ、もしかしたら通報したほうがいいのかもな」と慌てて言う。
「通報っていっても」と、ショウタはため息混じりに「偶然その時に落書きを見つけたってだけで、前からあったのかもしれないしさ」と言う。
「忘れたほうがいいって、ただの悪戯だろうしさ」と、テライはまた笑ってショウタの肩を叩いた。
学校が終わった帰り道でも、ショウタは落ち着かなかった。
テライが言ったことがもし事実だったら、とショウタは考える。放火しておいて≪勝った≫と言ってのけるような狂人が自分の家の近くにいたのかと思うと吐き気がした。
世の中の死角に忍び込んでは犯行を行い、世間が驚き慌てふためく様を見ては勝ち誇る。きっとそいつは常習的にそういうことを繰り返しているのだろう、と思った。
思えば思うほど怖くなって、ショウタはいつもとは違う道から帰ることにした。少しだけ遠回りになるけれど、人通りの多い大きい商店街を通って帰るのだ。
そう思って自転車を漕いでいると、恐怖のせいで、無意識にその文字を探していたのだろうか。暗がりの道、電柱のところに赤い文字が書かれているのにショウタは気づいてしまう。
驚いて自転車を止めて電柱に近づくと、そこには今朝と同じ赤いスプレーで≪来た、見た、≫と書かれてあった。ショウタは全速力でそこから離れた。
家に帰るとショウタは警察に電話を掛けた。
「落書きねぇ、一応だけ調べてはみますけどね」と、電話口で男性警察官が言う。
「それだけで特別に警備をしたりはできないんですよ。落書きなんてどこにでもありますからね」
ろくに相手にされず電話を切ってもショウタは不安なままだった。殆どやけくそで数学の参考書を開いてみたけれど、少しも頭に入ってこない。
気にしないでおこうと思えば思うほど、脳裏にあの赤い文字が浮かび上がってくる。ショウタは混乱したままテライに電話をかけてさっきの出来事を相談しようと思う。
こんなのはただの偶然の一致なのだ、友達との笑い話にしてしまったほうがいいのだ、とショウタは思った。数回の呼び出し音で、テライが電話に出る。
「もしもし、テライかよ、実はまたあの落書きを見つけちゃってさぁ!」と、ショウタはバカみたいな勢いで大声で言う。
「おい、お前、もしかしてそれって」と、テライは対照的な声で言う。
「商店街の近くの道じゃないだろうな。俺の家がそこの近くで、さっきボヤがあっていま大騒ぎして―――」
ショウタはその言葉を最後まで聞けずに携帯を落とした。
翌日、ショウタは母親に風邪気味だと嘘をついて学校を休むことにした。恐ろしくて外に出たくなかったのだ。
昼過ぎにテライから電話があって、やはり昨日の電柱の落書きの近くに放火があったこと、それによって死傷者が出たこと。
そして、落書きに≪勝った≫の文字が書き足されていたと報告があった。
「もう警察には電話したんだしさ、俺たちにできることは全部やったんだからあんまり心配するなよ、どこにも行かずにのんびり家で寝ててくれよ」とテライは言った。
ありがとう、今日は本当に風邪だったからさ、とショウタは言って電話を切った。
ショウタはパソコンをつけてインターネットで世界の犯罪者について調べてみる。放火魔という存在への恐怖を打ち消そうと、理性がそうさせたのかもしれない。
それによると、猟奇的な犯罪者の中には「サイコパス」と呼ばれる精神的な疾患を持ったものが少なくないらしかった。
生まれつき善悪の境界が希薄で自分が偉人であるかのようにプライドが高く、他人の痛み苦しむ様子を見てゲームのように勝ち負けを楽しむ。
今回の放火魔もまさしくこういう部類の人間だとショウタは考える。遺伝子のレベルで犯罪者になることが決定している人間が現実には存在するのだ。
もし、犯人が自分が通報したことを知ったら報復に来るかもしれないとショウタは思う。それまでは出歩かずに部屋にこもっていよう。
死傷者が出た今は警察も本気になって捜査するだろう。犯罪の成果を小さく世間に自慢するような性格なのだ、手がかりも少なくはないはずだし、
恐らくは三日もすれば絶対に捕まるはずだ。それまで逃げ切れればこの「勝負」は僕の勝ち、なのだ。
ショウタは両親が時々使っていた睡眠薬を戸棚から二錠だけ取り出すと、それを飲んでベッドに横になった。
数時間後、何度も繰り返すインターホンのベルでショウタは起こされた。宅急便だろうか、と思いドアを開けてみると、玄関に封筒が置いてあるだけだった。