小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

たんたん

INDEX|2ページ/3ページ|

次のページ前のページ
 

 裏切りだなんて、何を大袈裟な。僕は単なる職場の同僚だ。彼女のプライヴェートには関知しない立場の人間なのに、おこがましいことを。
「…………」
 眼鏡が曇る。いけない、こんな顔でデスクに戻る訳にはいかない。
 トイレに立ち寄り、午後からは何も考えないようにして、彼女と会う以前のように淡々と仕事をした。
 ふと、紫陽花には毒があることを思い出した。愛でるだけで、食べてはいけない花だということを。

 結局午後の仕事の合間合間に彼女のことを考えてしまうという失態を犯した。勿論仕事上のミスは犯していない。あくまで僕の中での問題だ。
 退社後、沢渡さんに電話をした。
 社員のプライヴェートな休日に電話をするのはあまり気が進まなかったが、あらぬ誤解を受けているなどという話をあまり当の場――職場でする気にはならなかったからだ。緊急連絡先として提出されていた携帯電話を鳴らす。
「じゃあ、お茶でもしましょうか」
 さらりと言われ、会社からそう遠くない駅前のファミリーレストランで待ち合わせた。彼女は、スーパーでの買い物帰りということがよく判る格好で現れた。指先につながっているのは、娘さんのちいさな手。
「娘のさやかです。さやか、こんにちはは?」
「こんにちは!」
「こんにちは、さやかちゃん」
 子供は苦手だが、挨拶くらいは出来る。僕は精いっぱいの笑顔を浮かべる。こういうとき、営業のひとつでも経験しておけばよかったと思う。全く営業向きではないことは自分がよく知っているけれど。
 まず休日に連絡したことを詫び、手短に社内の噂について報告し、また詫びた。ジーパン姿の沢渡さんはころころと笑う。さやかちゃんは隣でおとなしくストローでりんごジュースを飲んでいる。
「やっぱり杉田さんはご存知なかったんですねぇ」
「は」
 口から転がり出たのは、疑問形にもなりきれない、単なる音。
「笑ってごめんなさい。そういう噂は少し前からありまして、私も否定はしていたんです。でも私の方から杉田さんにこんなこと言われてますよって言うのもおかしいかなと思って黙っていたんですけれど……杉田さん、もてるのにあまりそういうことに無頓着でしょう。それで、妬いた誰かが私のことを言ったそうですよ。私自身のことは隠すつもりはありませんが、訊かれもしないのに言いふらすことではないでしょう?」
 え、え、え。
 折角積み上げた情報が突き崩され、更にかき回される。どうなって、いるのだ。
 タイミングを逸して冷めてしまったコーヒーに入れたミルクもぐるぐる回っている。
 思わず話を制するように手のひらを彼女に突きつけてしまった。
「あの。すみません。オーバーキャパシティのようです。不躾なことをお聞きしますが、僕とあなたは、その、何でもないです、よね?」
「ええ、今のところは」
 ……何だろう、この、引っかかる答え方は。思考停止に陥りそうになるのをぐっとこらえ、極めて機械的に会話を続行することにした。
「周囲にそう思われる要因が僕には判りかねるのですが、沢渡さんが不快に思われることがありましたら遠慮なく言ってください。善処します」
「杉田さんと一緒にお仕事していて、不快に思ったことなんて一度もないですよ。とてもやりやすいです」
「なら良かった」
 彼女は笑顔で頷いている。問題はその次だ。
「それで、僕が、何ですって……?」
「女性から、人気ですよ?」
 よく判らない。
 ……会社は仕事をしに来るところであって遊ぶところではないという信条の僕は間違っているのだろうか。
 テーブルに突っ伏してしまってから、そんなことをしている場合ではないと顔を上げる。唐突だと自覚しながらも、話題を無理矢理変えてしまう。
「ええと、沢渡さんのことは第三者から聞いたとは言え、プライバシーに踏み込んでしまって申し訳ありません」
 すると、また、彼女は笑う。隣のちいさな頭をさも愛しそうに撫でながら。
「隠してないんですから構いませんよ。子供一人抱えて働くのに、いちいち気にしてなんかいられません」
 さやかちゃんは何事かと母親を見上げているが、自分に向けられた笑顔によく似た造作の笑みを返す。仲がいい親子だな、と僕は捻りのない感想を抱く。ただ、社内の彼女とは少し雰囲気が違うなと思った。
「差し出がましいことを言いますが、その……大変ではないのですか」
 だから、何故、笑うのだ。この人は。
「行政の支援も受けていますし、何とか二人食べていけています。大丈夫ですよ」
 離婚というのは、不幸なことではないのだろうか。何故、彼女はこんなに朗らかな笑顔を僕に見せるのだろうか。
 ああ、判らない。
「……どうして、離婚するかも知れないのに、結婚したんですか」
 手で口を塞いでも遅かった。思考がそのまま口をついて出ていた。
 窓の外に視線をそらすと、かたまって咲く紫陽花が目に入る。
 彼女が毬のようなセイヨウアジサイだとすると、僕はぼろぼろと失言を零すガクアジサイのようだ。
 沢渡さんは怒るでもなく、うーん、と考える人のポーズを取った。
「そのときはね、好きだったんです。あの人の子供が欲しいと思ったし、彼も望んだから産みました。別れた今でもこの子の近況報告はするし、さやかが会いたいなら会わせますけど……私とあの人がよりを戻すことはない、かな」
「ぱぱ?」
「うん、ぱぱ」
「こないだあいすたべたね?」
「そうね」
 片言の親子の会話も何だか微笑ましいもの、なんだな。
 なのに、僕は。
「……何で」
 まただ。
 僕はいい加減口を縫い付けた方がいいのかもしれない。
「結婚するときは死ぬまで一緒だと思ったのにね」
 そのときの彼女の表情を、何と表現すればいいだろうか。先程までとはまるで質の違う、複雑な笑み。それまでも立ち入ったことを訊いてしまっていたけれど、それより更に踏み込んでしまった僕は、その足を持ち上げることすら重たいと感じた。僕よりも年下の彼女が経験していることは、決して今の僕が知ることが出来ない現実。そもそも僕は、過去にも未来にも「死ぬまで一緒」だと誓った相手などいないのだ。
 目を伏せた沢渡さんに「すみません」と謝って席を立った。
「杉田さん」
 鞄と伝票を手にした僕を呼びとめる声はもういつもの沢渡さんに戻っていて。
「杉田さんが考えている程、難しくはないんですよ。結婚も、離婚も。……杉田さんが考えてらっしゃるようなメリットやデメリットの問題ではないんです、よ?」
 また、彼女は僕の判らないことを言う。そも、僕はそんな話を彼女にした覚えもないのに、どうして知っているのだろう。
 僕の中で赤紫と青色の紫陽花が、ぐるぐる回って、コーヒーみたいに苦くなっていく。それを飲み干すのは、毒なのに。僕はずっとそのカップを手に取ったままでいた。
 いや、彼女が毒なのではない。見ている分には綺麗な花なのだ。口にさえしなければ。
 よろけそうになったのを悟られないように、椅子の背もたれに手を掛ける。しっかりしろ。
「……ばいばい?」
「うん、ばいばい、さやかちゃん」
 判らないことに足を突っ込まないのは、僕の主義だ。

 僕の周りには、僕の判らない人ばかりで、僕のことが判らないという人ばかりで。
作品名:たんたん 作家名:紅染響