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たんたん

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たんたん


「結婚しないの?」
 もう何百回と放たれた問いに眉をひそめた。

 僕には、「結婚したい」という気持ちが判らない。

 そう言うと決まって家庭の、特に両親の不和が原因だと推測する輩が出てくるがそれは要らぬ心配だ。二人は放っておいてくれと言わんばかりに仲が良い。何度「いつも手を繋いで仲良しね」とご近所さんに冷やかされたことか。
 あくまで僕自身に結婚のメリットが見いだせないだけだ。そもそも「結婚したいのに出来ない」と嘆くのはまだ判るが「結婚しなければならない」という義務感や周囲からのプレッシャーがよく判らない。法律で罰せられる訳でもないのに、親からせっつかれ、周りからは当たり前の通過儀礼をこなしていないとみなされ、世間体が悪いだの何だのと言う。世間体という言葉はかくも都合の良いときばかりに出てくる。勿論こちら側の都合では、断じてない。
 何が何でも跡を継がねばならない名家の生まれならばともかく、うちは平凡なサラリーマンの家庭だし、いざとなったら妹がいる。彼女が結婚するかどうかは僕の知ったことではないが、見ている限りでは何人かと付き合った経験もあるようだし、そのうち何処かに嫁ぐのだろうと思う。
 それにまた、取り敢えずやっておけば良い通過儀礼にしては、手続きや労力を考えると割に合わない。それならば、無駄な労力を払わないに限る。

 ところで――両親が離婚した子というのは、早くに結婚するか、親のように離婚するか、結婚しないか、らしい。周りを見渡しても、決して偏見の目で見る訳ではないが、訳あって片親の子はこの三つのいずれかのパターンに陥っている。
 そんな中、一番不思議なのは同級の幸太の存在だった。小学生のときに両親が離婚し、父方に引き取られ、母親は別の男と再婚したというのに、この父親・母親・息子の関係は極めて良好だったばかりか再婚相手と元妻元母親の営む料理屋に足繁く通ってはカウンターで談笑しながら飲み食いをしていると言うのだ。
 理解が、追いつかない。
 僕と両親の関係よりも濃厚で良好な様をまざまざと見せつけられて、僕は結婚に果たして意味があるのかどうかますます混乱した。もし自分の両親が離婚したら僕と妹はどうする、などという果てしなく無駄な想像までしたものだった。
 お陰で結婚という制度がよく判らなくなってしまった僕は、次第にそれを避けるようになってしまっていた。
 大学を卒業して一応社会人になった現在までに付き合った相手というのは数人いた。が、結婚を仄めかされると逃げるように別れた。それならばいっそ、金目当ての方がましだ。……一方で僕が身体目当てだと謗りを受けたこともあるが、中身ではなく互いの持っているもの目当てだった相手に言われたくはない。もっとも、その「中身」とやらの本質を僕は未だ理解したことはないのだが。
 友人の結婚式に招待されることが多くなり、やがて出産報告の葉書を受け取るようになった。素直にめでたいことだと思うが、それらを自分のことに置き換えて考えることが出来ない。それは僕自身に何か欠落している部分があるのか、それとも時を同じくして耳に入ってくるようになった離婚の知らせが妙なバランスを保っているのか。
 ともあれ、家と会社を往復し、たまに寄り道するという日々を重ねて今に至る。特に不自由は感じていない。
 ちなみに、幸太はその間に結婚と離婚を三回程繰り返していて、僕の謎に拍車をかけ続けている。


 紫陽花が咲こうかという頃、職場に新しい派遣社員がやってきた。前任者が出来ちゃった結婚とやらで辞めてしまい、何とも中途半端な時期に採用になったのは不幸ではなかったかと思ったのは僕の至極勝手な杞憂で、彼女――沢渡さんは「この不景気にラッキーでした」と笑った。
 背の高い僕と小柄な彼女の間にはえらく縦の空間が開いているが、彼女の明るい雰囲気はそれを埋めるかのようにいい匂いをさせながら僕の鼻先まで届いてくる。
「そうでしたか。期の途中ですし、引き継ぎもままならない状態だったのでやりにくいかと思っていましたが」
「だって、判らないことがあれば杉田さんに訊けばいいんでしょう?」
 総務課で諸手続きを終えた彼女と共に廊下を歩きながら問うと、あどけない表情であっさりと返される。
「まぁ……そうですが」
 彼女の上司……という言葉が適当かどうかは判然としないが、同じセクションで働く僕が彼女のお世話係ということになっている。
「早速ですが」
 何を尋ねられるのかと思い、何にでも回答出来るよう仕事回路のエンジンをフル回転させ、背筋を伸ばしたも束の間、
「お手洗いはどちらでしょう?」
 僕はずれ落ちそうになった眼鏡を押し上げながら廊下の奥を指差した。
「右側、です」

 沢渡さんという人は本当によく判らない。
 今までの派遣さんというのは、大抵「契約期間に仕事をこなせばいい」という極めて派遣社員らしい派遣社員だったのだが(それはそれでとても合理的なことだと思っている)、彼女は課長にも物怖じせずに意見する。当然その前には僕に打診があるのだが、その内容というのは言ってみれば今の状況に慣れきってしまっている僕たちが気がつかなかったり見落としたりしていることだ。それが、入ったばかりの彼女の業務上引っかかるのだろう。最初は僕が上司に伝えますと引き取ろうとしたのだが、彼女は頑として譲らない。それは手柄を立てようという陳腐な功名心などではなく、社内の人間が言うよりも説得力があるでしょうという彼女なりの気遣いであることを知ったときは流石に感動したものだった。
 勤務時間にも関わらず職場できゃいきゃい騒ぐ女子社員ともまた違った趣で、僕は沢渡さんと仕事をするのが面白いと思うようになっていた。今までは飽きる程単調な毎日の繰り返しだったのに。
 紫陽花が、青い花を咲かせていく。

 但し、僕は必要以上のサプライズを必要としない。
「杉田さん、知ってましたぁ?」
 彼女が私用で休みだという日、総務課の中でも噂好きで有名な三好さんが社員食堂で声を掛けてきた。
「何を?」
「沢渡さん、バツイチなんですよぉ。もうすぐ小学生の子供さんもいるんですって。見えませんよねーぇ?」
「へぇ」
 きつねうどんを啜りながら適当な相槌を打つ。
「杉田さんがショック受ける前に教えとこうと思って」
「ショック? 僕が?」
 ずるずるずる……ずる?
「沢渡さんと……」
 結論が容易に想定出来るトーンの言葉を遮るようにぱちんと箸を置いて顔を上げた。三好さんが一瞬怯む。
「……そう思われていたのなら誤解だ。沢渡さんにも迷惑だから、以後気をつけよう。それと、総務の人間ならば不用意に個人情報を漏らさないように」
 何よ折角教えてあげたのに、とむくれる三好さんを背に、僕は席を立った。
 ……頭の中へ無造作に放り込まれた情報に、どれから手をつけたものか。
 まず第一に、僕が沢渡さんのことを云々という誤解が生じているということ。
 そして、彼女のことを全て知っている義務も権利もないのに、何故だか裏切られたような、名状しがたい感情に襲われているということ。
作品名:たんたん 作家名:紅染響