死ねない世界
そういうと老人の顔は綻ぶ。
「そうかいそうかい。わしは昔大きい都市に住んでいたんだ。見上げる様な建物が沢山あって人も溢れる位いるような街だ。車という箱型の獣の様に速い機械が沢山道を走っていてお店に行けば何でも売っていてお金さえあれば何でも手に入った」
「おっさん、爺さんの夢物語を真剣に聞いちゃいけないよ」
少年はそういうとまた松明を持って洞窟を出て行った。
「おじいさん、」
俺は老人の話を遮った。
「俺も昔そういう世界にいました」
老人は息を飲むとしみじみと頷いた。
「そうかいそうかい。わしが居たのはずっと昔の話だ。その後も世界を転々とした。何度も死にそうになって目覚めるために知る物の無い所にいた。初めの頃は神様がわしにやり直す機会をくれたんだと思った。でも初めの内だけだ。良くいったって悪くいったって死んでしまえばまったく知らない所から始めなきゃいけない。争って人を殺してばかりいる世界もあったしみんな自殺してしまうから一瞬で終わる世界もあった」
この老人は俺よりも死の恐怖を味わっているんだなと思った。
「そんな世界では皆死ぬと次の世界へ行くだけだと分かっていた。終わりなど誰も知らなかった。老いも若きも皆いた。ただね」
そこで老人は息をついて俺を見た。
「死ぬ回数が増えるほど街は小さくなっていた。ここみたいにおよそ開発されていない、する人のいない所が増えて行った。人の数も減っていった。減った分の人は何処へ行くのだろう、とみんな思いだした。何処へ行くのか誰も知らなかった。別の世界へ行っているのか消滅しているのか本当に『死んで』しまっているのか。それは恐怖だった。だってまだ誰もその世界で『死んだ』人はいないのだから。お客人はどう思う?」
「どう、とは?」
俺は直ぐにこの密林に来てしまったからその様な世界の変遷には気付けなかった。
「この『生まれ変わり』について。ここが死後の世界で死んだ人が来るならあの子の様に新しい命は生まれる筈が無い。我々は前世の記憶があるだけなのか? それならなぜ死んだ時と同じ姿で新しい人生が始まる? これには終わりがあるのか?」
老人は唾を飛ばしながら俺に掴みかかって来て、途中で不自然にひゅっと息を吸い込んだ。
「爺、また興奮したの? もう歳なんだから止めときなさいって」
若い女性の声がしたと思うと少年の母親くらいの年の女性が俺の後ろ、洞窟の入り口から表れて老人を俺から引き離した。
「ごめんなさいね、お客人。もう爺さん耄碌してるから」
老人の身体は固まったままだった。
「あれ?」
女性は老人の心臓に耳を当てると立ち上がり「死んでる」と呟いた。
その洞窟には少年と少年の兄と母親と父親が住んでいた。この密林の中にいるのはこの家族だけらしい。獣の寄らない火を常に持っているのでたまに旅人が立ち寄るのだと言っていた。旅人はもっと人の多い町から来るのだと言っていた。
その夜は家族と一緒に食事をし、寝床を分けてもらった。ふかふかの草を敷いていても地面は固く寝づらかった。
朝起きると老人の死体は無くなっていた。要らないものはすべて少し行った所にある崖から捨てるのだと言っていた。老人は俺と同じような客人で血は繋がっていないらしい。少年の両親の両親はもう死んでしまったということだった。生まれた時からこの獣の寄らない火はあり、この火があるおかげでここに住めているのだという。俺は火の番をして過ごすことになった。ここにいる限り獣は来ないので殺される心配もないし家族が食べ物を分けてくれるので餓死する心配もなかった。一日が嫌に長く時間間隔など無くなった。
家族は食料を集め物作りをしそれが終わったら歌って踊り暮らしていた。それはとても綺麗な、充足した暮らしだった。
随分時間が経ったころ旅人が家族の元に寄った。そこで俺は町ではこの家族が神聖視されていることを知った。俺は旅人に連れられてその家族の元を後にした。
密林は思っていたよりも早く終わりが来た。通り抜け方があり知らないといつまで経っても出られないのだと旅人は言った。家族は抜け方を知らず旅人は長い時間を掛けて密林を抜けているのだと信じていた。
密林の外には草原が広がっていた。腰丈の細い葉の草が風に揺れて地平線まで続いている。それは夢のような光景だった。地平線の向こうに町があった。
小さな町だった。木造の平屋建ての家が十数件並んでいるだけで商店も何もない。申し訳ばかりの畑があり僅かな家畜が町の周りにいた。これでどうやって暮らしているのか不思議だった。
俺は祭壇の様な所へ連れて行かれると縛り付けられた。カニバリズムの町だった。俺は考え得る中で一番最悪な死に方をした。
人の数は本当に減って行っているらしく、次の世界では村しかなかった。そこでは他の村からの人は来ないし、そもそも他に人がいるかどうかも分からないという。生気もなく沈んだ空気。いつも何かに脅えている暮らし。後退していく生活様式。
人の数が少ないと文明は生まれることもできないのだということを感じた。身体が重かった。
川沿いのその村が大水に飲まれ全員が川に飲まれた。
川で洗われて丸くなった石がごろごろしている河原で俺は目覚めた。かちかちと音がするので見ると子どもが石を積んでいる。
「あ、目が覚めたぁっ」
そう言うと子どもは酷く嬉しそうに笑う。小綺麗な格好をしていて今までとの違和感を感じた。こんな服を作る技術はないのでは?
「今までずーっと独りで淋しかったんだぁ。前の人がいなくなってから誰もここまで来ないんだもん」
子どもにしては冷たい体温の掌で子どもは俺の頭を撫でる。
「ようこそ、僕の世界へ。ここでは僕と君二人っきりだよ。世界の果てはあの崖の上」
そう言って子どもは河原の両端に聳え立つ崖を示す。広く浅い川は緩やかに流れているようでどちらが上流かも分からなかった。来る方も行く方も霧が立ち込めていて見通しが利かない。
「ここならお腹も空かないし疲れることもない。危険な生き物も植物もない。何をしても怒る人もいない。何して遊ぶ? なんでもしてあげるよ」
子どもは酷く大人びた表情で笑った。