仕事伝説 ―彼と彼女―
しばらく走って、イリスはようやく馬を止めた。あの騒ぎだ。すぐには奴らも追ってこられまい。
(・・・危なかった)
まだ燻るような痛みを訴える胸を、イリスは抑えた。あのまま術者を倒せなければ、自分はこの世に存在していなかっただろう。だが、確実に体力は削られていた。
姓だけ変わっていないと、こんなにも気難しいとは思っていなかった。まだ半分は、裏切った事への後悔があり、国王に対しての忠誠が残っていた。
「・・・おねえさ・・・ん」
フュウの娘がおずおずと、話しかけてきた。
「御免なさい。怖い思いさせたわね」
イリスは詫びた。彼と一緒に逃がしてやれなかった事と、先刻まで自分が行ってきた事に対して。
「おとうさま、またあえるよね」
無垢な顔だった。怯えたくないが為に、彼女なりに自分を奮い立たせようとしているのが、酷く分かった。イリスは余り上手くない、笑みを作って言った。
「ええ・・・・・・。貴女がいい子にして、立派になったらね」
「うん。・・・あ、わたし、レティシア。おとうさまが、つけてくれた、なまえ」
「そう。私は・・・ああ、そうだった。私の名は、イリス。貴女のお父様に付けてもらった名前よ」
レティシアは得意げな顔で、言った。
「あのね、おねえさんのイリスってなまえ。わたしの、おかあさまのなまえなの」
「・・・そう」
通りですぐに名前を私に付けた訳だ、未練たらしい。イリスは笑った。尤もその名も、定魔名には変わりないのだから。
しかし、何故か笑うイリスの頬には、涙が浮かんでいた。
ベルク共和国は、東に位置する。ブライツ王国が、最終的に占領するであろう国。
ずっと『メイス』に居たとしたら、自分はそこの潜入を命じられていたかもしれない。
首都までは、ずっと荒原がある。そこを東に数百キロ。子供を連れたイリスにとっては困難な道のりであり、それでは馬も耐え切れない。今は国境を突破して数キロ地点にある町だ。まだまだ先は長い。
(さて、どうするか・・・・・・)
「あんたら、どうしたね」
声を掛けられ、イリスは相手が『メイス』の人間ではないと察し、口を開いた。
「ここからベルク共和国まで、行く足が無いから。今のこの馬じゃね」
「なら、あの荷馬車に乗っていったらどうだい?よくあれを利用して・・・」
そこで彼は声を小さくして。
「密入国する輩が居るからね」
「それで、貴方がさしずめその御者な訳」
「御名答。どうするかね?」
イリスはふと、レティシアを見た。そして、次に自身の事を考えた。
「・・・お願いするわ。言っておくけど、密入国者と一緒にしないでもらえる?」
言ってから、自分は今まで、密入国をして任務に当たっていたのだと気付く。そんな心境を知らない彼は、笑って言う。
「へへ、そいつぁ失礼」
ため息を吐きながら、彼女はいつも持ち歩いていた物を取り出した。
「これで二人分。足りるわよね?」
男に手渡した物は、金銀で彫刻を施された、丸いペンダントであった。
「じゅ、十分過ぎる・・・!こんなモン、初めて見た・・・」
荷馬車には、何人ものみすぼらしい格好をした人間が、既にたくさん乗っていた。
「嫌かもしれないけど、我慢してね」
何とか空いている空間に座り、イリスはレティシアに言った。
「ううん、へいき。・・・でもおねえさん。さっきのペンダント。たいせつなものじゃなかったの?」
ああ、と彼女は呟いた。あれは、いつの間にか自分の懐にあったものだ。おそらく、父の持ち物だったのだろうが。
「いいの。・・・あれを持っていたら、いつまでたっても、私は王国の人間だと意識してしまうから」
この時、彼女は後悔と王への忠誠を、捨てた。
荷馬車から見える星空を呆然と眺めていたイリスは、ふと狭い空間に乗っている、何人もの人間を見渡した。
御者の言う通り、王国に滅ぼされた国の者らしき難民が多い。自分がブライツ人だと知られれば、非難を浴びせられる所だが、乗っている者はほとんど喋らない。レティシアが自分に話しかけてくる以外、人の声は聞こえない位に。
今は夜だ。荒野を横切っている事もあって、かなり冷える。だが、乗っている者は皆眠っていた。イリスを除き。
眠る訳にはいかなかった。どんなに大丈夫と思っていても、心の何処かに不安がある。だから、彼女は見張っていた。荷馬車の振動が、いい眠気覚ましになる。
「・・・おねえさん」
レティシアが目を覚まし、こちらに話しかけてきた。心地の悪い荷馬車では、眠れないらしい。彼女にとっては、無理も無いが。
「あのね、てを、つないでもいい?おねえさんと、いっしょにいたい」
「・・・いいわよ」
イリスは手を差し伸べ、その小さな手を握った。レティシアは父親ともう会えないかもしれない、イリスと別れて一人になるかもしれないという不安で、一杯であった。
「私は、ずっと貴女を守る。心配しないで」
その呟きが聴こえていたのか、レティシアはぎゅっと、強く手を握った。
ゆっくり、荷馬車が止まった。
「着いたぞ。見つからんように、静かに行けよ」
御者の声に、乗っていた全員が降り出す。ここはベルク共和国の首都、デフツだ。
しかし首都とはいえ、この有様。余り裕福な国ではなさそうであった。
(ここに・・・、本当に、ディーク・ローが居るのかしら)
最後に荷馬車を降りた時、御者が言った。
「なぁ、あんた。あんた一体、何者なんだ?」
「深追いすると、痛い目見るわよ」
そう言って、彼女は御者に、背を向けた。
しばらくした時。レティシアの手を引き、下町を歩いていたイリスは、ふと足を止めた。
「レティシア。ここで待っててくれる?戻って来るから、動かないで」
レティシアは悟ったようだ。深くうなずく。
「ぜったい、ここからでないからね」
彼女は自ら念を押すように言うと、近くにあった物置小屋の戸を閉め、隠れた。
それを見届け、イリスはナイフを数本取り出し、歩き出した。あと、数メートルの距離・・・。
「今晩は。よく追い着いたわね。先回りのようだけど、それなら大した直感だわ」
「リュカス・ウェッジ・・・あの娘は、どうしましたか」
七人に減った、『メイス』の仲間を引き連れたヴァインは、低く言った。
「ここには居ないわ。とっくの昔に、彼の仲間に預けて来たから。貴方こそ、フュウはどうしたの?」
「訊く必要が、貴方におありですか」
イリスは駆けた。その行動に、七人が散開した。各個打破しかない。
「娘が逃げたというのなら、貴方をこの場で抹消するのみです!!この運命を受け入れるがいいっ」
ヴァインが合図した。上に気配を感じる。短弓を持った人間が、左右の屋根に二人。短弓は速射に長けている。イリスを牽制、又は狙撃する為だ。だが、そうさせる訳にはいかない。
彼らの間の屋根に上がり、ナイフを投げた。狙撃ならば、こちらも負けはしない。
慌てて、二人が両側から矢を放ってくる。イリスは勘だけで屋根を蹴り、上へと跳躍した。その間にも、ナイフは彼らに向かっている。次の矢を彼らが放つ事は不可能であった。
作品名:仕事伝説 ―彼と彼女― 作家名:竹端 佑