シャーリー・バッシーの歌が好き
すうっとカワモトさんの足が動いて向こう側に倒したようだ。単に同じ姿勢をしていると飽きるので動かしただけかと、少し残念な気もした。
賑やかな場面ではワーッと軽く言葉が出る。時々カワモトさんの顔が近づいてきて「スゴイねえ」とか「あ、◯◯◯◯だね」とか言うのだが、甘い匂いもしていて余計に恋人同士に思えてくる。足が疲れたので動かそうと視線下げたら、かすかに白くカワモトさんの膝小僧が見えた。それは触ってくれと誘っているようにも思えたが、さすがにそんなことは出来ず視線を映画に戻した。
画面ではフレッド・アステアがタップを踏んでいる。
「私もやってみたいなあ」とカワモトさんが私の耳もとで小さい声で言った。私はその声も心地よく響いてあいまいに頷きながら、ふと欲情しそうな自分を叱った。
それにしても陽気過ぎじゃないかという映画を見終わって、少しざわついた心のまま映画館を出た。何だか別れるのが惜しそうな気分だったが、妻子ある身だし、同僚とあまり親密になるのもどうかなあと思いながらカワモトさんを見た。
カワモトさんは、少しボーッとしているように見えた。
「疲れた?」と私が聞くと、「なんだか少し気分が悪い」と言った。
「大丈夫?」私は顔色を見ながら聞いたが、それほど悪くはないと思った。
「うん、ビールが今頃効いてきたかな」
カワモトさんは無理に笑いながらそう言った。
「じゃあ、人のいない方に歩こうか」と新宿御苑の方に向かって歩き出した。
「睡眠不足もあるかな」
ポツリとカワモトさんが言う。
「何してたの」
「別に。眠れなかったの」
「ふーん」
「少しよくなってきたかな」
カワモトさんが少し歩みを停めたので、私は停まって顔を見たが、解らなかった。
「もうすぐ御苑だけど」と私は時計を見た。入っても1時間ぐらいで閉園の時間になる。
カワモトさんは「大丈夫そうだから帰るかな」と少し自信が無さそうに言った。
「送ってゆこうか」私は何気なく言ったのだが、そこまでする程の付き合いではない。
「でも、悪いわ。奥さん待ってるんじゃない」とカワモトさんが言うのを、私はあれっと思いながら聞いた。そのセリフは浮気をする男とその愛人のようではないか。
私はなんだか流されているなあと思いながら、「でも、途中で倒れたら」などと口走ってしまった。
「タクシーで帰るわ」とカワモトさんは車道に目をやった。
「あれっ、誰かと一緒に住んでいるの? 一人だっけ?」と聞くと、
「妹と一緒だったけど、もう結婚しちゃったんで一人よ」と言った。
私が「じゃあ部屋の前までついてゆくよ」というとカワモトさんは頷いた。
料金を払ってタクシーを降りて少し歩き始めたとき、カワモトさんが少しふらついた。私がとっさに支えると、ふわっと柔らかいものに触れた。すぐにその手は両肩におかれたのだが、私は思いの外重量感のある胸に触れた触感の消えぬまま、腕をとって歩こうとした。
「大丈夫。ありがとう」
カワモトさんは、自分の部屋に帰るために2階への階段を登り始めた。やはり心配なので片腕を支えながら一緒に階段を上った。拒否をしなかったので、部屋の前で一緒に歩きカワモトさんが鍵をあけるのを見ていた。
「ごめんね。もう大丈夫だと思う」と、カワモトさんは、か細い声で言ってドアを開けた。
それから私の目を見て「楽しかった。ありがとうね」と言ってチラッと部屋の中に視線を向けてから再び私の顔を見て「コーヒー飲んで行く?」と言った。
「具合はもういいの」と私は言って、自分がこのまま帰りたくないと思っていることを感じた。そして、「じゃあコーヒー入れてあげるよ」と言ってしまった。頭のなかで、彼女が誘っているんだよと囁いている。
小さな台所のテーブルと椅子が二つ。その一つにカワモトさんは座った。そして流しのほうを見る。私はそこに薬缶を見つけ、水を入れてガスの火を点けた。
「斉木さんは家でも、色々するの?」と言っているのを聞きながら「コーヒーはどこ?」と聞いた。
カワモトさんが椅子から立ち上がり食器棚からコーヒーカップとインスタントコーヒーを出した。そして「あとは私がやる。ありがとうございます」と言って私の手から薬缶を受け取った。渡す時に互いの指が触れ、少しドキドキした。
いつの間にか外は暗くなっていて、私は妻のことを思い出してしまった。私が電話ある?と聞くと、カワモトさんは一瞬ためらったあと、居間で、寝室でもあるのだろう部屋を開けた。
「どうぞ」という声で、私は部屋の手前にあるデスクの上の受話器を見た。部屋はやはり女性の部屋という匂いがして、私は欲情ではなく妻に対する罪悪感のようなものも感じた。
「あ、オレ。急な仕事入ったから遅くなったけど、もうすぐ帰るから」と妻に言った。妻は、わかったとぶっきらぼうに言って電話を切った。
「ごめんね。私もう大丈夫だから」カワモトさんは、それでもどこか寂しげだった。そして「私ね、失恋したの」と言った。
私は(あ、オレ?)と一瞬思ったが、次の言葉で完全に自分の思い上がりに気づいた。
「それでね、誰か知ってる人と今日は夜一緒にいたいと思ってたの」
その口調は今までの私も、たぶんカワモトさんはも急に醒めてしまったようにも聞こえた。
「斉木さん、優しそうだから。つい」と、そこで言葉を切って、また「ごめんね」と言った。そして「この状況でちゃんと奥さんに電話するんだから。私とんでもないことをしてしまうところだったのを、助かったわ」と言って立ち上がった。
「具合はもういいの」
私はそんなことしか言えなかった。まるっきり浮気心がなかったとはいえなかったので、助かったのは私かも知れない。
「映画館を出たときは、悪かったのよ。だんだん良くなってきたついでに、何だか一人になるのが嫌な気持ちもあってね。でも、やはり斉木さん、思った通り誠実な人だと思った。明日からまた一緒に仕事がんばろう」
カワモトさんは、少し無理したような笑顔で言って手を差し出した。
「えっ、なんでこんなシーンで握手なんだよ」
私はそう言って笑った。思いの外大きな笑い声が出て、カワモトさんも大きな声で笑ってから「駅はね、さっきタクシーを降りた道をこっちへ真っ直ぐに3分も行くと、もう見えるよ。気をつけて帰ってね」
私は損をしたような得をしたような複雑な思いで、初めての駅に向かって歩き始めた。
了
作品名:シャーリー・バッシーの歌が好き 作家名:伊達梁川