すぐりの木 1
「話したいことがあったんじゃないのかい?」
すぐりは言った。
「たいしたことじゃない、もう忘れた。」
僕はすぐりの枝を掴んでゆさゆさと揺らした。
さらさらと葉をならしながら、すぐりは僕を見ていた。
僕もすぐりを見ていた。
「もう、家に帰れよ。」
「どうして?」
「晩飯どきだ。腹いっぱい食べて、よく寝ることだ。そうしたら何もかもよくなる。」
「そんなに簡単じゃない。」
「なぜ?」
「なんでもだ。」
痛まない程度にきつくひっぱって、放した。
「おっと、手荒なまねはやめてくれよ。」
ぽたぽたといくつかすぐりの実が落ちた。
「これじゃ、あっという間に全ての実が落ちてしまうよ。」
「大事にしてるが、こればっかりはね。しぜんのせつりっていうやつだ。」
ふふんと鼻で笑ってすぐりはすぐりの実をまた2、3個落とした。
「拾おうか?」
僕は言った。
「拾ってどうする、接着剤でくっつけるのか?」
「君の枝に乗せておくってのはどう?」
「君はどうしたってそんなつまらないことを言うんだろうねぇ。」
僕は今落ちた分のすぐりの実を手の平に集めて、またぱらぱらとすぐりの上に落とした。
いくつかはすぐりの枝や葉に引っかかったが、ほとんどはまた地面に落ちた。
「帰るよ。」
「そうしな。」
また地面に落ちた分はまた拾った。
「僕がこれを食べるよ。」
「そう。」
「じゃあね。」
「また来るんだろう?」すぐりが聞いた。
「わからないな。明日引越しするかもしれないんだ。」
僕はなんとなくそう言ってみた。
すぐりはなにも言わなかった。
「冗談だよ。」僕がそういうと、
「知ってるよ。」すぐりは愛想なく返事した。
ふん、と心の中でつぶやく。
僕は手の平にすぐりの実を乗せながら、家の方へと歩いた。
柔らかい赤土が靴の底にへばりついていて、僕の足跡はコンクリートの上に残った。
すぐりの実は食べなかった。そのままコンクリートの上に捨てた。
僕の足跡と共に、すぐりの実もまたそこに残った。
2.
家に帰って、すぐにすぐりのことを思った。
ご飯を食べながら、すぐりの枝をひっぱったことを謝りたくなった。
ご飯にはほとんど手を付けずに全部ビニール袋に入れた。後ろでそのご飯を作った京子さんが眉間にしわを寄せてはいたが、咎められることはなかった。
僕はパンパンに膨らんだビニール袋を見て、パンパンになった僕の胃袋を想像した。
僕はそれを手に、もう一度すぐりのところへと向かった。
「やあ、二時間ぶり。」
僕は軽く手を上げて、ちょっと笑いもして挨拶したが、すぐりは何も言わなかった。
「お腹が空いてるだろうと思って晩飯を持ってきたんだ。」僕は努めて明るく、とぼけた風に言ってみせた。
すぐりは何も言わない。
すぐりはいつも口数が少ない。だから僕も気にしないんだ。
「もう寝たの?」
「普通、木は話をしたりしないものだよ。」すぐりは言った。あまり機嫌がよさそうじゃない。
いつものことだ。だから気にしない。
「でも、君は話す。」
「それは君の気のせいだ。」
僕の目の奥が熱くなる。いつものことだ。いつものすぐりだ。
僕は気にしない。
気のせいのはずがあるものか。確かに君の声を聞いているのに・・・。
「君はいつも勝手なことばかり言うね。なんでも話せと言ってみたり、なにも話すなと言ってみたり。今日は木は話をしないなんて言う。」
最後のほうは声が震え、小さくなった。
僕はすぐりを前にするとすぐに泣く。
「うまそうじゃないか。」
最初に沈黙を破ったのはすぐりのほうだった。
僕は急に嬉しくなった。
「食べる?」
「ああ。」
僕はすぐりの木の下にビニール袋の中身をぶちまけた。パスタやレタスの葉っぱやマッシュルームやコーンが月に照らされて光って見えた。
「おいしい?」
「そうすぐにわからない。でもきっと旨いだろうよ。京子さんが作ったんだろう?」「そう。京子さんが作ったんだ。」
すぐりは京子さんが作った料理が一番旨いと言う。
クラッカーやジュースとは比べ物にならないほどに、と。
「京子さんは君のところへ来るようになってどれくらいたつのかな?」すぐりが聞いた。
「さあ、半年くらいじゃないかな。」
「そんなに短かったかい?」
「そんなところだと思う。」
京子さんは家の料理や掃除を毎日してくれる。家政婦さんではない。本当の仕事は父に会いに来ることだ。料理や掃除はそのついでだ。
「なぁ。」
「君はずっとこうしているつもりかい?」すぐりは言った。
「何のこと?」僕は聞いた。聞いてから、しまった、と思った。
「君はここと家の往復以外どこにも行かない。買い物にも、散歩にも、学校にも。」
案の定。すぐりの説教が始まった。
「僕はこれでいいと思ってるんだ。」
すぐりの説教に僕はいつもそう答えて、その後は少しすぐりから離れて様子をうかがうことにしていた。
いつものすぐりは、その後に何も言わない。ふうん、って感じで。
本当にそう思う。無理に出かける必要も学ぶ必要もない。僕はこれでいい。
「言い出しにくいんだが。」すぐりは言った。
「もうここには当分来ないでくれ。」
本当に言い出し難そうに言うんだな、と僕は思った。
なんとなく分かっていた。いつかすぐりはこう言うだろうと。そして今日のすぐりは言い出しかねない、とも。
「君は、」
「君にはもっとするべきことがあるはずだ。たくさん、たくさんね。」
僕は黙っていた。
「もっと早くに言うべきだった。」すぐりはうな垂れていた。葉も、枝も。円形の実ですらも。
「今日さ、」僕は腹が立っていた。
「君の、すぐりの実、食べずに捨てたよ。コンクリートの上にね。そしたら、大型トラックに全部踏み潰されてぐっちゃぐちゃさ。悪かったね。」
自分が苛立った時、父に似ていると思う。今の言葉を絶対、後悔する。必ず。必ず。
「いいんだ。気にするな。あれは価値のない実さ。」すぐりのその言葉にさらに腹が立った。
「君に価値のある実があるのかい?」最高に僕は意地悪になった。
父のように。すぐりを睨む僕の目を、僕は一生知りたくないと思うほどに。
「なぁ。」すぐりは言った。
「本当にもうここには来ないでくれ。」
僕は急にさっきの言葉を後悔した。こうなるのもわかっていたことだ。でもただひたすらに悔やんだ。
すぐりはきっとすごく怒ったんだ。わかっていたことだ。父のような言い方をしたんだ。わかっている。
「ごめん。お願いだから怒らないで。」僕は謝った。でも、すぐりは何も言わない。
お願いだから、怒らないで。
何度も何度も謝った。すぐりは何も言わない。本当の木のように。すぐりが喋らなくなると気配が消える。まるで死んだみたいに。
そしてその度に僕は、二度とすぐりの声を聞くことが出来なくなるのではないかと絶望的な気持ちになる。
僕は泣いた。
すぐり、すぐり。
「なんだって君は、」やっとすぐりは口を開いた。
「こんなにも涙を流さねばならないのかねぇ。」
「僕は、すぐりが、いなければ、生きていく、ことが出、来ない。」
しゃっくりを止めることができず、言葉はとぎれとぎれになった。
頭の片隅で冷静な僕が子供みたいだよ、とつぶやいた。
「すぐり。ごめんよ。」
すぐりは言った。
「たいしたことじゃない、もう忘れた。」
僕はすぐりの枝を掴んでゆさゆさと揺らした。
さらさらと葉をならしながら、すぐりは僕を見ていた。
僕もすぐりを見ていた。
「もう、家に帰れよ。」
「どうして?」
「晩飯どきだ。腹いっぱい食べて、よく寝ることだ。そうしたら何もかもよくなる。」
「そんなに簡単じゃない。」
「なぜ?」
「なんでもだ。」
痛まない程度にきつくひっぱって、放した。
「おっと、手荒なまねはやめてくれよ。」
ぽたぽたといくつかすぐりの実が落ちた。
「これじゃ、あっという間に全ての実が落ちてしまうよ。」
「大事にしてるが、こればっかりはね。しぜんのせつりっていうやつだ。」
ふふんと鼻で笑ってすぐりはすぐりの実をまた2、3個落とした。
「拾おうか?」
僕は言った。
「拾ってどうする、接着剤でくっつけるのか?」
「君の枝に乗せておくってのはどう?」
「君はどうしたってそんなつまらないことを言うんだろうねぇ。」
僕は今落ちた分のすぐりの実を手の平に集めて、またぱらぱらとすぐりの上に落とした。
いくつかはすぐりの枝や葉に引っかかったが、ほとんどはまた地面に落ちた。
「帰るよ。」
「そうしな。」
また地面に落ちた分はまた拾った。
「僕がこれを食べるよ。」
「そう。」
「じゃあね。」
「また来るんだろう?」すぐりが聞いた。
「わからないな。明日引越しするかもしれないんだ。」
僕はなんとなくそう言ってみた。
すぐりはなにも言わなかった。
「冗談だよ。」僕がそういうと、
「知ってるよ。」すぐりは愛想なく返事した。
ふん、と心の中でつぶやく。
僕は手の平にすぐりの実を乗せながら、家の方へと歩いた。
柔らかい赤土が靴の底にへばりついていて、僕の足跡はコンクリートの上に残った。
すぐりの実は食べなかった。そのままコンクリートの上に捨てた。
僕の足跡と共に、すぐりの実もまたそこに残った。
2.
家に帰って、すぐにすぐりのことを思った。
ご飯を食べながら、すぐりの枝をひっぱったことを謝りたくなった。
ご飯にはほとんど手を付けずに全部ビニール袋に入れた。後ろでそのご飯を作った京子さんが眉間にしわを寄せてはいたが、咎められることはなかった。
僕はパンパンに膨らんだビニール袋を見て、パンパンになった僕の胃袋を想像した。
僕はそれを手に、もう一度すぐりのところへと向かった。
「やあ、二時間ぶり。」
僕は軽く手を上げて、ちょっと笑いもして挨拶したが、すぐりは何も言わなかった。
「お腹が空いてるだろうと思って晩飯を持ってきたんだ。」僕は努めて明るく、とぼけた風に言ってみせた。
すぐりは何も言わない。
すぐりはいつも口数が少ない。だから僕も気にしないんだ。
「もう寝たの?」
「普通、木は話をしたりしないものだよ。」すぐりは言った。あまり機嫌がよさそうじゃない。
いつものことだ。だから気にしない。
「でも、君は話す。」
「それは君の気のせいだ。」
僕の目の奥が熱くなる。いつものことだ。いつものすぐりだ。
僕は気にしない。
気のせいのはずがあるものか。確かに君の声を聞いているのに・・・。
「君はいつも勝手なことばかり言うね。なんでも話せと言ってみたり、なにも話すなと言ってみたり。今日は木は話をしないなんて言う。」
最後のほうは声が震え、小さくなった。
僕はすぐりを前にするとすぐに泣く。
「うまそうじゃないか。」
最初に沈黙を破ったのはすぐりのほうだった。
僕は急に嬉しくなった。
「食べる?」
「ああ。」
僕はすぐりの木の下にビニール袋の中身をぶちまけた。パスタやレタスの葉っぱやマッシュルームやコーンが月に照らされて光って見えた。
「おいしい?」
「そうすぐにわからない。でもきっと旨いだろうよ。京子さんが作ったんだろう?」「そう。京子さんが作ったんだ。」
すぐりは京子さんが作った料理が一番旨いと言う。
クラッカーやジュースとは比べ物にならないほどに、と。
「京子さんは君のところへ来るようになってどれくらいたつのかな?」すぐりが聞いた。
「さあ、半年くらいじゃないかな。」
「そんなに短かったかい?」
「そんなところだと思う。」
京子さんは家の料理や掃除を毎日してくれる。家政婦さんではない。本当の仕事は父に会いに来ることだ。料理や掃除はそのついでだ。
「なぁ。」
「君はずっとこうしているつもりかい?」すぐりは言った。
「何のこと?」僕は聞いた。聞いてから、しまった、と思った。
「君はここと家の往復以外どこにも行かない。買い物にも、散歩にも、学校にも。」
案の定。すぐりの説教が始まった。
「僕はこれでいいと思ってるんだ。」
すぐりの説教に僕はいつもそう答えて、その後は少しすぐりから離れて様子をうかがうことにしていた。
いつものすぐりは、その後に何も言わない。ふうん、って感じで。
本当にそう思う。無理に出かける必要も学ぶ必要もない。僕はこれでいい。
「言い出しにくいんだが。」すぐりは言った。
「もうここには当分来ないでくれ。」
本当に言い出し難そうに言うんだな、と僕は思った。
なんとなく分かっていた。いつかすぐりはこう言うだろうと。そして今日のすぐりは言い出しかねない、とも。
「君は、」
「君にはもっとするべきことがあるはずだ。たくさん、たくさんね。」
僕は黙っていた。
「もっと早くに言うべきだった。」すぐりはうな垂れていた。葉も、枝も。円形の実ですらも。
「今日さ、」僕は腹が立っていた。
「君の、すぐりの実、食べずに捨てたよ。コンクリートの上にね。そしたら、大型トラックに全部踏み潰されてぐっちゃぐちゃさ。悪かったね。」
自分が苛立った時、父に似ていると思う。今の言葉を絶対、後悔する。必ず。必ず。
「いいんだ。気にするな。あれは価値のない実さ。」すぐりのその言葉にさらに腹が立った。
「君に価値のある実があるのかい?」最高に僕は意地悪になった。
父のように。すぐりを睨む僕の目を、僕は一生知りたくないと思うほどに。
「なぁ。」すぐりは言った。
「本当にもうここには来ないでくれ。」
僕は急にさっきの言葉を後悔した。こうなるのもわかっていたことだ。でもただひたすらに悔やんだ。
すぐりはきっとすごく怒ったんだ。わかっていたことだ。父のような言い方をしたんだ。わかっている。
「ごめん。お願いだから怒らないで。」僕は謝った。でも、すぐりは何も言わない。
お願いだから、怒らないで。
何度も何度も謝った。すぐりは何も言わない。本当の木のように。すぐりが喋らなくなると気配が消える。まるで死んだみたいに。
そしてその度に僕は、二度とすぐりの声を聞くことが出来なくなるのではないかと絶望的な気持ちになる。
僕は泣いた。
すぐり、すぐり。
「なんだって君は、」やっとすぐりは口を開いた。
「こんなにも涙を流さねばならないのかねぇ。」
「僕は、すぐりが、いなければ、生きていく、ことが出、来ない。」
しゃっくりを止めることができず、言葉はとぎれとぎれになった。
頭の片隅で冷静な僕が子供みたいだよ、とつぶやいた。
「すぐり。ごめんよ。」