Slow Luv Op.1
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〔金曜日〕
一秒でも時間が惜しい悦嗣に、英介は当日までの間、スタジオを用意してくれた。
「おまえまで、付き合わなくていいのに」
そして練習にも付き合ってくれた。
「少しでもいいコンディションで、エツには明日がんばってもらいたいからな。どーせオフだし、建設的ないい暇つぶしさ」
「暇つぶしかよ」
残りの三人は観光に出かけるとかで、前日同様、夕方にスタジオ入りの予定だった。
さく也はともかく、ウィルヘルムとミハイルは日本が初めてで、今回は観光もスケジュールに組み込んでいると、悦嗣は聞いていた。
来日した四人はオーケストラのオフを利用して、ヨーロッパでもアンサンブルのサロンコンサートを開いたり、音楽祭に出演したりしているらしい。特にさく也以外はWフィルの所属で、日ごろの練習も同じくしているから、息もよく合っている。
「中原さく也はWフィルじゃなのか」
「うん、所属はNフィルで、ウィーンでは中堅くらいかな。うちのオーディションを、受けるように勧めてるんだけど、面倒臭いって受けないんだ」
「面倒くさい?」
「変わってるんだ、あいつ。そういうとこも誰かさんと似てると思わないか?」
英介はニヤニヤと笑った。
「おまえなぁ」
と、悦嗣はその額を軽く小突く。そしてピアノの前に座ると、指慣らしに簡単なメヌエットを弾き始めた。
英介も傍らに立って、それを楽しげに聴いている。
学生時代を二人して思い出していた。英介が演奏する時の伴奏はいつも悦嗣が担当し、テストが近づくとレッスン室に篭って、遅くまで練習したものだ。自分のテスト練習はなおざりだった悦嗣も、彼の練習にはまめにつきあった。
思えばあの頃から、すでにそれは芽吹いていたのかも知れない。
今では無くなった二人だけのこうした時間が、実はとても嬉しい。
「さく也はすごいだろう?」
メヌエットが終わったところで、英介が話し掛ける。学生時代の懐かしい空気は霧散した。
悦嗣はブラームスの楽譜を開く。第一楽章の冒頭の音符を見ると、第一ヴァイオリンの音が聴こえるような気がした。
「ああ、すごいな」
昨日、中原さく也と合わせた感想を話した。
あまりの『音楽』に、聴き入って手が止まってしまったこと、演奏再開後も何度も止まりそうになったこと、その音が耳に――今も楽譜を見ただけで――響いてくること。
「あれは天性のソリストだ。アンサンブルするのは反則だろーが。セカンドはどうしてもその差を埋められない。ヴィオラのEが目立つのも、チェロのテンポが鈍く聴こえるのも、あれの所為だ」
こうしてあの音を言葉にして表現すると、鳥肌が立つ思いがする。
「それから、自分が素人だって思い知らされる」
「さく也が本気だしたのは、今回、この前のセッションが初めてだ。ステージではあんなことはないよ。きっとエツが本気にさせたんだ」
「おまえは褒め殺しの天才だな」
「子供は褒めて伸ばせって言うだろう?」
彼は甘い笑顔を作る。
「冗談じゃなく、エツに触発されたんだよ。さく也は人に対してひどく慎重で、なかなか自分を出さない、感情にしても音楽にしても。だから無防備に自分を出すようになるのは、よほど相手を信頼しているってことなんだ」
英介はチェロ・ケースの方に動いた。
「きっかけは何でも構わない。さく也もエツも、その才能を無駄にしてほしくないから。
…ま、俺が一緒に演りたいってだけなのかも知れないけどさ。Wフィルのファースト(ヴァイオリン)は、若返りが必要だし。それに、俺は特にエツのピアノのファンだから」
彼は話ながら、楽器とパイプ椅子をピアノの傍に持ってきた。
英介の言葉に、悦嗣は胸の辺りが熱くなるのを感じていた。それはだんだんと首から頬へと上っていく。
隔てられた四年など、結局、何の用も為さなかったのだ.。想いを再確認したおかげで、むしろ感情の抑えがきかなくなり、表情に出てしまいそうになる。
「指慣らしに、もう一曲どうだい? あれ合わさないか? エルガーの『愛のあいさつ』」
頬が紅潮するのではないかと思った。
『愛のあいさつ』は、彼の披露宴で二人で合わせた曲だった。英介への気持ちに気づいた、あのスピーチの後で。それを思い出すと、頬の熱さは途端に冷めていく。
「『愛のあいさつ』 考えてみれば不吉な曲だぜ」
「なんで?」
「五回、友達の披露宴で弾いたけど、その内二組が離婚して、一組は離婚調停中だ」
英介は「いい打率だな」と爆笑した。
「笑ってる場合か。調停中はてめぇだろ? ほら、チューニングしろよ」
と悦嗣が促すと、英介はチェロを持って座った。
さあセッション…と、悦嗣がブレスで出を合図した時、スタジオのドアが開いた。
入って来たのは観光に行っているはずのさく也だった。
「あれ、さく也どうした?」
英介は手を止める。さっきまでの話題の主がタイミングよく現れて、悦嗣は思わず彼を凝視する。
「寝過ごしたら、置いてかれた。ホテルにいるのも暇だから」
荷物置きに用意された机にヴァイオリン・ケースを置くと、大きなあくびを一つしてさく也は答えた。
「じゃあ、一緒に暇つぶししようか。寝覚めの一曲、エルガーの『愛のあいさつ』なんだけど」
と、いたずらっぽく英介。
「俺は暇つぶしの道具かよ」
悦嗣の口が、への字に曲がる。
その言葉にさく也の口元が綻んだように見えたのが、悦嗣には意外だった。
作品名:Slow Luv Op.1 作家名:紙森けい