Slow Luv Op.1
さく也の弓が微かに揺れる。ピアノとチェロが反応して、第一楽章が鳴った。五小節のユニゾンが終わってテンポが変わる。ピアノ先行で第二ヴァイオリンとヴィオラも加わり、音楽はいよいよ広がっていく。
抑えたアレグロ。劇的起伏に富み、それでいて決して大げさではなく、繊細な情感を伴い、二つの主題は展開していった。
一昨日、聴く余裕など無かった悦嗣の耳に、今は四つの弦の音が押し寄せる。混乱せずに自分を保って入られるのは、午後、自分の為に演奏されたさく也のパイロット・プレイのおかげだ。
上手く弾けているかどうかはわからない。しかし生みだされる音楽は聴こえる。
それぞれの楽器の声音も聴こえる。
成果が予想以上だったことに、英介は驚いていた。
――エツのスイッチ・オンってとこだな
承諾させてからの一日で、ずい分弾きこんだらしい。テンポの緩急にも遅れずについてくる。こちらはさく也のおかげだろう。
それとさく也。第一ヴァイオリンが上手くリードしている。よほど相性がいいのか、感性が似ているのか、彼の演奏もまた、横浜と埼玉での演奏とは違って聴こえた。
ピアノのみならず、他のパートをも引っ張るそれを、第二ヴァイオリンとヴィオラも感じているようだった。
「どうしたんだ、サクヤの奴、珍しく積極的だな?」
第二楽章が終わって、さく也が一度演奏を止めた。それからピアノの元に歩み寄ると、悦嗣に何か話しかける。そのいつもとは違う様が、ウィルの気を引く。
「ピアノもさ。この前とじゃ別人だな。あれって二日前だったよね? どんな魔法使ったんだ、エースケ?」
ミハイルが興味深げに尋ねる。
「あれが彼本来の姿だよ。やっと戻るべき姿に戻ったんだ。本番まで明日一日しかないのが残念だ。きっと面白い解釈のブラームスが出来たのに」
「どういう意味さ?」
英介はミハイルを見る。
「今は俺たちに合わせるのでいっぱいいっぱいだけど、あと一週間あれば自分の中で消化して、逆に引っ張ってくれるからさ」
さく也が席に戻った。そしてヴィオラのウィルに、
「Eが少し低い。チューニングしなおせって」
と伝えた。
「あいつが言ったのか!?」
ムッとウィルの口元が引き締まる。
「さすが調律師、耳いいねぇ」
とミハイルがからかうと、さく也は彼に向き直り言った。
「セカンドはいつもより鳴らした方がいい。多分ファーストが鳴らしすぎてるせいだと思うけど、弱すぎる」
ミハイルはポカンと口を開けた。英介は二人の反応にクスクス笑う。
「くっそー、素人のくせに」
ウィルの口を塞ぐように、Aが鳴った。それにミハイルが続けた。
「もう素人じゃない。明後日にはプロとして同じステージに立つんだから。それにウィルのEはいつものことだろ? 僕のは半分サクヤのせいさ。ちゃんと言ったろう? 自分が鳴らしすぎるって」
「鳴らしすぎるせいだと思うけど…だ。人の話は正しく聞けよ」
「エースケ、ウィルが八つ当たりする」
英介が口を開きかけると、もう一度Aが鳴った。
さく也がチューニングし直すと、他の三人も倣った。
作品名:Slow Luv Op.1 作家名:紙森けい