楠太平記 二章
小袖の左袖は傷口を縛る為に使った為、下着の白い袖が見えている。乳母が見たら卒倒ものだが、千早はおかまいなしに正時の腕を引っ張った。
「そんなことより兄上!! ちょっと来て下さいっ!!」
「お、おい! 儂は兄者にここの指揮を任されていてだな――」
「急を要するんですっ!! 良いからついてきて下さいっ!!」
正時を押しこむように馬に乗せ、千早は馬の腹を軽く叩いた。
「お、おい千早っ!!」
正時の乗った馬は独りでに軽く走り出す。彼が手綱の支配権を手にする前に、千早は愛馬・堯にまたがっていた。
「さ、行きますよ!!」
正時の乗った馬の手綱を握ると同時、千早は堯に合図を出した。
すぐさま堯は加速し、千早に手綱を握られてしまった正時の馬もそれに続く。
「ま、待たんかこらあーっ!!」
「待ちませんっ!!」
指揮者を失った人夫たちは、皆ぽかんとした顔で千早を見送っていた。
「――で、一体何があったのだ」
千早は正時と共に、正行の部屋に呼ばれていた。
理由は明白。正時が倒れた女性を抱えて、千早と屋敷に戻ってきたからだ。
勘の良い正行のことだ。既に昨夜の騒ぎとの関係性を探っていることだろう。
「雷が落ちた所の近くを探っていましたら、あの方が倒れていました。酷い怪我でしたが息がありましたから、正時兄上に頼んで運んでもらったのです」
困り顔の正時に代わり、千早は淡々と説明した。正時は無理矢理巻き込まれたのだから。
「・・・・・・恰好を見た所、この国の者ではないようにも見えたが」
「はい。ですが蝦夷や熊襲といった古き一族の者と考えれば、そう不思議にも思いませんが」
朝廷に討伐された大昔の一族たちは、異なる文化を持って生活していた。生き残りが小さな集落を作り、生活していたとしたら。千早にはあの女性がその一族の者だと考えていた。
「だが昨夜の雷は、あの者が起こしたかもしれん。いや、妖術使いかもしれない。だとすれば話は変わって来よう」
正行は千早の説明になるほどとうなずきながらも、納得はしていないようだ。領主として当然の立ち位置ではあるが、いつものようにすんなりと受け入れてもらえないことがもどかしい。
「妖術使い!? 千早、まさか北朝の手の者ではあるまいな――」
「違います!! あの方は、違います!!」
千早は大声で正時の言葉を阻んだ。正行の目が見張る。
「・・・・・・何故分かるのだ」
「・・・・・・っ、あの方と、以前お会いしたことがあるのです。私が北朝の者かと訊ねると違う、と。誰かに追われているようでした。きっと、その追手に襲われたんです。雷はただの偶然ではありませんか」
勘の良い正行相手に。嘘を言っても通じない。千早は正直に話した。
正行はそれを聞き、腕組みをして唸った。まだ腑に落ちないという顔をしている。
「兄上。困った者を見放すなど仁義に反します。ここは私に任せて頂けませんか。
もし我が一族に仇なすことが分かれば、私がこの手で討ちます」
「――・・・・・・人を殺したことのない、そなたに討てるか?」
ため息混じりに、正行は訊ねる。どんなに剣術で腕が立っても、千早は人を殺めたことなどない。
それでもこの兄の為なら、人を殺めることを厭わず刃を振るえる。千早にはそれだけの覚悟を持っていた。
「・・・・・・それがどれほど辛いことになろうとも、必ず討ちます」
千早はまっすぐに正行を見つめた。彼は千早の為を思い、わざと困らせる問いをしたのだろうが、それは正行とて同じなのだ。千早が肯定すれば、居心地が悪いのは正行になる。
それを少しでも回避する為には、お互いの良い着地点を探るしかない。自然と、千早の望む方向へ転んでくる。
「――・・・・・・分かった。ならばあの者は、そなたの部屋で面倒を看るのだぞ」
「兄者・・・・・・!?」
「ありがとうございます、兄上!!」
千早は正行の胸に飛び込み、ぎゅっと彼を抱きしめていた。
「全く・・・・・・千早には敵わぬな」
正行は苦笑しながら、千早を優しく抱きしめた。
つづく